水浜の巡拝塔と河岡の題目塔
米子市の最南端に位置する水浜地区と河岡地区にはそれぞれ道標があります。米子市と伯耆町の境界付近は、出雲街道の道筋が複数に分かれており、また、それぞれの道筋もはっきりしない場所ですが、これらの道標は昔の道筋を想像させてくれます。
水浜の巡拝塔
車尾の渡しを渡っても八幡の渡しを渡っても、米子方面から来た出雲街道は日野川に沿って南東へ進み、米子市最南端の水浜地区に至ります。その水浜地区にあるのがこの道標です。
寛政元年(1789)
「右 くけミち」
「左 上方ミち 大山」
現在は堤防に置かれており、場所からして少しは移動していると思われますが、方角等に不自然さはなく、米子方面から来て集落の入口付近にあったことは変わっていないでしょう。ここで上方道(出雲街道)は左となっており、日野川から少し離れることになります。
河岡の題目塔
(米子方面から来て)日野川から離れて水浜の集落を抜けて東に進むと、ここで道は二手に分かれ、「出雲街道を歩こう」で採用している伯耆町遠藤の集落へ南下するコースと、もう少し東に進んでから遠藤地区の外れにある万太夫(まんだい)という集落を通り、そこから南下するコースです。万太夫の集落の少し北、米子市河岡地区の妙本寺に置かれている題目塔にも道標としての文字が見えます。
享保3年(1718)
「右 大せん道」
「前 上かた道」
「左 よなご道」
「後 いなば道」
「南無妙法蓮華経」が大書された面に道標としてのすべての文字があるので、題目塔の「前」「後」という表記になったと思われ、位置関係から十字路に置かれていて文字の面が南を向いていたと推測できます。元々の場所は不明ですが、「米子の道しるべ散歩」では「万太夫の辻と推定される」と妙本寺の住職に聞き取ったことが記されています。
出雲街道のうち東寄りのルートはここから淀江から尾高を通ってきた日野往来と重複することになり、この場所は日野郡から来て山陰道に出る道筋にもなっていました。また、近くで県道159号と伯備線が交差する踏切も八郷街道踏切という名前で、県道159号の道筋が大山道(丸山道)だったことがわかります。「いなば道」「大せん道」という文字が見えるのはそのためで、現在は圃場整備された田園地帯となっているこの付近にも江戸時代中期には多くの古道が通って使い分けられていたと想像できます。出雲街道や日野往来の道筋の特定を困難にしているのもそれが理由なのかもしれません。