延助の道標
真庭市蒜山上徳山地区の延助集落は岡山県の国道482号沿いで最も鳥取県に近い集落で、大山道の宿場として繁栄してきた歴史があります。
集落の東西に道標
延助の集落を西に出たところ、国道482号と県道58号の交差点の南、中曽バス停のところに道標が保存されています。
「右 大せん米子」
「左 志ん庄根雨 道」
天保3年(1832)
延助の集落を西に出た人が目にする道標で、移設はされているそうですが、現在の道路網とも一致する記載内容で、集落を西に出ようとした人のための道標であることは間違いありません。左折すれば県道58号で、野土呂峠を越えて新庄へ、そして出雲街道に入って根雨へと至り、右は言うまでもなく大山道であり、国道482号と考えれば米子に至ります。
集落の東端近くの交差点にも道標があります。
(南面)
「右 いせ道」
(北面)
「左 くらよし道」
明和5年(1768)
延助の集落を東に出ようとしたときに目にする道標であり、まず正面に「南無阿弥陀仏」が目を引き、近づくと道標としての文字が読み取れます。必要な情報の方が小さいのはユーザー目線に立っていませんが、とにかく念仏が印象的な道標です。明和5年(1768)というと明治維新の100年前で大山道に残る道標としては最古クラス、江戸時代の中期頃と言えば、お伊勢参りが庶民化してきた時代のものです。
大山道の宿場だった集落
延助は山中の集落としては珍しく、500m近くにわたって家並みが連続しています。大山道の宿場と言えば、宿場町というよりは宿場の機能を持った集落という感じですが、ここは参勤交代に利用された有名な旧街道の宿場町のような姿です。山また山の大山道において蒜山高原の平地の西端、大山までも早朝に出れば夕方に戻れるという場所は、宿場として最高の立地だったと言えるでしょう。今でこそ空き家も目立つ静かな集落になっていますが、大山道の往来が盛んだった時代には蒜山高原では屈指の人口を抱え、商業も繁栄していたと言われています。
集落を西に出たところの中曽バス停は真庭市コミュニティバス「まにわくん」の中曽・関金ルートの終点になっており、現在でも路線バスによって犬挟峠を越えて関金温泉へ、関金温泉で日本交通バスに乗り継げば倉吉へ行くことができます。幹線ルートが観光エリアの中心にある蒜山高原(休暇村前)バス停を終点にしているのに対し、地元の生活路線が延助を終点とし、その行先も鳥取県であるというのもおもしろいところです。
“延助の道標” に対して1件のコメントがあります。