【後醍醐天皇伝説】笠懸の森・安祥寺跡
後醍醐天皇伝説の地は「出雲街道を歩こう」でご紹介している江戸時代の出雲街道から少し外れた場所に多く存在しており、その道筋の推定を困難にしていますが、江戸時代の出雲街道上で伝説が語られている場所として代表的なのが美作市の笠懸の森です。
笠懸の武技で天皇を慰めた場所
笠懸の森は美作市楢原中地区、梶並川のすぐ東にあります。後醍醐天皇の一行は増水のために梶並川を渡ることができなかったため、川岸のこの地で休息し、笠懸の武技を見せて天皇を慰めたとの伝説が残ります。梶並川は吉井川の支流の吉野川の支流ではありますが、美作市の北部、旧勝田町方面への谷筋を作っている川で、水量も決して少なくはなく、橋のない時代には難所だったことでしょう。
美作市における後醍醐天皇伝説としては有名な場所で、脇の石碑から昭和40年(1965)に建立されたと思われる「笠かけの森」、昭和57年(1982)の「後醍醐天皇御駐輦記念」大きな石碑があります。それだけを見ると戦後になって整備された場所に思えますが、「笠掛森」と刻まれた石灯籠は天保5年(1834)のもので、少なくとも幕末には既にこの場所が名所となっていたことがわかります。
その他にも小社や古い墓石があり、榎や椋の古木に守られた一角は、小さいながらも聖地として長年にわたって護られてきた雰囲気です。
案内板に見る天皇一行の行程
これまでご紹介してきた円応寺、春日神社、大宮神社ではそれぞれ記念碑や案内板に後醍醐天皇が通られた日付についての記載がありました。円応寺に泊まったのが3月15日、杉坂峠を越えて途中で春日神社や大宮神社を通られたのが3月16日とされており、両立はしなくとも行程だけ見れば納得できるものでしたが、この笠懸の森の案内板では3月17日の夕方に休息されたとされており、行程が不自然になってしまいます。
また、ここでは途中の経由地の記載もあり、「杉坂峠→田原→江見→南海→楢原上・神宿→楢原中・火の神」とされています。この記述については国道179号の少し北寄りをほぼ一直線に西進していることに加え、その経路上に後醍醐天皇の伝説も多く残されていることから、なかなか説得力のあるコースとなっています。
もちろん、日程も経路も地元の言い伝えに過ぎず、確実なことは当然わからないのですが、このような伝説の地を巡ると、それぞれの言い伝えの違いもわかり、後醍醐天皇遷幸の道について色々な推定をすることができます。
[公共交通でのアクセス]
なぎバス・美作共同バス「北山」下車 約500m
中国ハイウェイバス「美作インター」下車 約1km
姫新線「楢原駅」下車 約2.2km
近くの安祥寺跡にも伝説
梶並川を渡り、さらに県道51号を渡って、北の山に少し入ったところある薬師堂は安祥寺の跡で、古い宝篋印塔が立っています。ここには後醍醐天皇に付いてきた広橋局がこの地で産気づき、皇子を産んだという伝説が残っています。皇子はすぐに亡くなってしまったそうですが、後醍醐天皇の隠岐配流は家族や近臣などを多く連れたものであったらしく、過酷な旅だけに、道中には途中で残された関係する人々の悲しい話も残されています。
[公共交通でのアクセス]
なぎバス・美作共同バス「北山」下車 約500m
中国ハイウェイバス「美作インター」下車 約1km
姫新線「楢原駅」下車 約2.9km
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