津山元標里程標(出雲街道西方 一里~三里)
江戸時代には全国の主要な街道に一里塚が整備されましたが、実際にはほぼ正確に一里を刻んでいるものではなく、距離にかなり誤差がありました。そこで、明治時代に入ると主要道路に里程標が整備されることになり、岡山県北部では主として津山を基準とした津山元標の里程標が明治5年(1872)から明治7年(1874)にかけて設置されました。
出雲街道では津山より西にこの里程標が多く残されているので、現存するすべてをご紹介するとともに、失われた里程標についてもその場所を推定してみたいと思います。なお、設置された年はすべて明治7年(1874)です。
津山元標は大橋の西詰
明治の里程元標となる津山元標は宮川における大橋の西詰に置かれていました。現存はしていませんが、江戸時代に東大番所があったところあたりに存在していたものと思われます。なお、江戸時代の一里塚は津山城の入口となる京橋を基準にしていました。その誤差は400mほどです。
距津山元標壹里里程標
一里の里程標は津山市二宮地区、国道53号バイパスの橋と高野神社の鳥居の間にあります。なお、ここの旧国道は江戸時代の道筋を引き継ぎつつも昭和末期頃まで国道だった場所で、付近は市街化しています。
距津山元標三里里程標
二里の里程標は現存しておらず、次の里程標は三里です。場所は津山市南方中地区、国道の北を通る旧街道で、この付近では明治初期には現在の国道の道筋はできていなかったことがよくわかります。
二里の里程標の位置
先述のように二里の里程標は現存していませんが、津山市久米川南地区、八幡神社の鳥居前の交差点にありました。小谷善守氏の『出雲街道』にも記載があります。一里および二里の里程標との間の距離を測ってみてもともにほぼ4kmとなり、この位置に存在していたと考えてまず間違いありません。
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