因幡備前往来の元禄道標
美作国には元禄時代に多くの道標が整備されました。17世紀の道標が現存しているというだけで珍しいことですが、中でも因幡備前往来では勝央町及び奈義町のわずか8kmほどの間に4つもの元禄道標が残ってます。いずれも美作国に残る出雲街道の元禄道標と同じ年、同じデザインのものです。
因幡備前往来とは?
因幡備前往来とは因幡国鳥取と備前国岡山を結ぶ街道です。現在の国道53号にあたる街道も存在していたのですが、この街道は津山を経由せずその少し東寄りを通ることにより、鳥取と岡山の間の距離を少し短縮しています。
江戸時代のほとんどの時期において、岡山と鳥取の藩主は池田氏でした。関ヶ原の戦いの後に西国トップクラスの大名となり、姫路城を現在に至る形にした池田輝政の息子たちが岡山と鳥取の藩主となったため、交流も盛んだったことでしょう。
一方、中間の津山の藩主は森氏。池田氏と森氏は共に織田信長の古参の家臣で、その後も豊臣秀吉や徳川家康に重用されたという共通点があります。両家の関係は親しいものであり、森藩も岡山と鳥取の両池田氏の交流に利用される街道の整備に協力的であったと想像できます。
なお、出雲街道と交差する地点は美作市中尾地区内で、現在は「出雲街道再発見の会」により新しい道標が立てられていますが、かつてはこの地点にも元禄時代の道標があったそうです。
勝央町豊久田の元禄道標
四ツ辻から美作国らしい低い丘陵を縫いながら勝央町に入り、国道429号と交差する手前、勝央町北部運動公園の近くに元禄の道標があります。
「北 是より北因幡道」
「西 是より南備前道」
元禄2年(1691)
勝央町河原の元禄道標
豊久田の道標から東北東に進めば、今度はわずか1km少々で次の元禄道標があります。短い間隔で同じような規格で作られた古い道標があることにこの道の重要性を感じられます。
「北 是より北因幡道」
「東 是より左備前道」
元禄2年(1691)
奈義町柿の元禄道標
河原の道標から北東に進んで奈義町の柿地区に入り、奈義町中心部の平野が広がり始める直前に元禄道標があります。狭い平地の隅に街道が通ることが多い美作国を象徴するような立地です。
「西 是より右備前道」
元禄2年(1691)
奈義町高円の元禄道標
奈義町では役場や現代美術館などがあってその中心地区と言える豊沢地区には入らず、その東側を北に進んでいきます。国道53号を横断し、平地が尽きるあたりの交差点に最後の道標が立っています。
「東 是より左備前道」
元禄2年(1691)