出雲街道の元禄道標
旧街道の整備が進んだ年代は江戸時代の前期で、全国の街道に一里塚が整備され、国や街道の絵図が制作されました。参勤交代の制度が導入されたことがそれに拍車をかけ、出雲街道のような街道ではある程度の距離ごとに各種の設備を整えた宿場が置かれ、そこが街として発展することになりました。
一方、街道に付き物の道標を見てみると、現存する道標はほとんどが19世紀、やや古いものでも18世紀の後半であり、江戸時代前期の街道整備からすると、かなり遅れています。しかし、出雲街道には元禄時代(1688~1704)の道標が存在しています。
新宮の道標
「道の駅しんぐう」には道標が移設されて保存されています。
「右 たつ乃道」
「左 ひめち道」
元禄15年(1702)
元の位置は新宮町井野原地区だそうで、新宮の市街の南にあたります。当サイトでご紹介している出雲街道の道筋からは外れていますが、揖保川を遡っていけば山崎や一宮などがあり、北から来た人々のための道標であったと考えられます。
追分の道標
津山市と真庭市の境界のすぐ西には有名社寺を大書した大きな道標が目立っていますが、その脇にあるのが元禄時代の道標です。
「東 是より左備中みづた道」
元禄2年(1691)
ここは出雲街道から備中方面への道が分岐する地点です。「みづた」は北房ジャンクションがある付近の町の名前で、現在は真庭市になっていますが、平成の合併前の旧北房町は真庭郡ではなく備中国に属する上房郡でした。現在でも付近の交差点から県道411号が分岐して落合方面へ、落合からは国道313号で高梁方面と道が続きます。
神橋の道標
勝山の町並み保存地区の途中、神橋の東詰には3つの道標があります。最も新しいのが「出雲街道勝山宿の会」が整備した平成の道標、最も大きいのが嘉永の道標、その間にあるのが元禄の道標です。
「南 是より右ゆばら道」
元禄2年(1691)
追分の道標と建立年もデザインも同一です。方角については行先の地名の方角ではなく道標の向いている方角を示しており、追分の道標から見て水田は南西にあり、神橋の道標から見て湯原は北北東にあります。また、メインの道である出雲街道についての記載は省略して、出雲街道から分岐している道についてのみ記載されている点も共通しています。
美作国ではこのような道標が多数現存しており、森家時代の終わり頃となる元禄初期に組織的に道標の整備が行われたことがわかります。
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