踏切名で見る道の歴史(岡山県)

踏切には一つ一つ個性豊かな名前が付けられています。出雲街道沿線にあたる姫新線(姫路~津山~中国勝山)、伯備線(根雨~伯耆大山)、山陰本線(伯耆大山~松江)について、興味深い踏切の名前を見ていきましょう。今回は前回の兵庫県に続き、岡山県の姫新線です。

出雲街道を横切る踏切の名称

●上月~美作土居 ずい道西口踏切

土居宿の南東で江戸時代の旧街道を横切ります。

ずい道西口踏切

●上月~美作土居 土居踏切

土居宿の北東で近代の旧国道を横切ります。

●美作土居~美作江見 江見踏切

大還橋の西、川北地区で近代の旧国道を横切ります。江戸時代の旧街道はその少し南を通っていたと推定されます。

江見踏切

●勝間田~西勝間田 第一黒坂踏切

黒坂地区で江戸時代の旧街道・近代の旧国道を横切ります。

第一出雲踏切

●津山~院庄 第一出雲踏切

津山城下町の西、二宮地区で江戸時代の旧街道・近代の旧国道を横切ります。

第一出雲踏切

●坪井~美作追分 鶴坂踏切

坪井宿から鶴坂を越えた江戸時代の旧街道がこの付近を通っていたと推定されます。

鶴坂踏切

●古見~久世 大日踏切

目木川南岸、大庭地区のこの付近を江戸時代の旧街道が通っていたと推定されます。

大日踏切

歴史を語る踏切名の数々

岡山県の出雲街道(国道179号及び国道181号)では現在の国道と姫新線が交差する踏切はありません。なお、「街道」と名の付く踏切としては、津山~院庄に国道53号の旧道と交差する岡山街道踏切と国道179号の旧道と交差する奥津街道踏切があります。

出雲街道と交差していることが名前にはっきり表れているのは津山市内の旧国道を横切る第一出雲踏切で、津山から数えて最初に出雲街道と交差する踏切であることがその名の由来でしょう。ちなみに第二、第三の出雲踏切は存在しませんが、「第一」と名付けているからには、坪井や久世で現在の国道が姫新線と交差するところに「出雲踏切」がかつて存在していたのかもしれません。

久世の旧国道の踏切跡

岡山県の姫新線の踏切で目立つのは、踏切の場所ではなく、踏切を横切る道の行先の地名等をその名称としている踏切です。

美作土居~美作江見の上福原地区にある杉坂踏切は中世までの出雲街道だった道の踏切です。もちろんこの踏切名の由来は太平記にも登場する後醍醐天皇ゆかりの杉坂峠です。付近にはかつて元禄時代の道標も立っていました。

杉坂峠

楢原~林野の楢原下地区の馬形踏切は交差する県道388号の終点で、県道の距離で8kmほど離れた馬形地区がその名の由来です。馬形地区自体は昔の役場があったり有名社寺があったりといったこともない場所ですが、馬形には実業家であり政治家の豊福泰造がおり、彼が巨額の私財を投げうって姫新線の開通に尽力したことに感謝して、馬形への道と交差する踏切を馬形踏切と名付けたと言われています。

豊福泰造の功績を称える土居の案内板

話は少し違いますが、西勝間田~美作大崎の義経踏切の名前の由来は源義経です。この踏切の北の山沿いでは源氏方と平氏方の戦いがあったのですが、その戦いに源義経も出陣してきたとの言い伝えがあり、義経大明神という神社もあります。

義経踏切

津山~院庄の二宮地区にある立石踏切は一軒の家専用とでも言うべき踏切で、その屋敷は明治時代に実業家・政治家として活躍した立石岐の屋敷です。

立石踏切

久世駅の東、旧大山道の道筋を横切る踏切は倉吉踏切で、鳥取県中部の中心都市であるあの倉吉が名前の由来です。現在、この踏切を通って倉吉に向かう人は全くいないでしょうが、姫新線が開通した当時は三坂峠を越えて湯原、蒜山そして倉吉へと向かうこの道がまだ旧街道としての機能を保持していたことを感じさせます。

倉吉踏切

~お願い~

踏切は鉄道の安全に関わる設備です。列車の乗務員のことも考えて、踏切内に立ち入ったり線路に必要以上に近づいたりしての写真撮影など、危険な行為はしないようにお願いします。また、遮断機も警報機もない「第4種踏切」では、歩行者であっても必ず立ち止まって左右を確認してから横断してください。

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