出雲街道を戦前の地図で辿ってみよう(日野町・伯耆町 旧溝口町)
「ひなたGIS」は宮崎県が運営しているGISシステムです。前回(真庭市 勝山~美甘・新庄村)に続き、この「ひなたGIS」で戦前の地図を見ながら、日野町と伯耆町(旧溝口町)出雲街道を辿ってみましょう。(なお、この地図は米国スタンフォード大学が所蔵するものです)
道の概況と変遷
四十曲峠を越えて鳥取県に入ると、板井原宿までは現在の国道181号と違う道筋で下っていきます。現在の国道181号はトンネルや高い橋でクリアしている区間で、江戸時代の旧街道や明治時代の旧国道は谷筋を辿ります。現在では草が生い茂って通行困難な状態ですが、その道筋は現国道からも見えます。
根雨は比較的大きな市街を持っているだけでなく、姫新線より一足早く昭和3年(1928)に全通した伯備線の根雨駅も開業しており、町制も施行していて、奥日野の中心地としての発展していることが想像できます。
根雨~二部は江戸時代の出雲街道の宿駅間で唯一、道路が改良されず、道が点線となっている区間です。道路も鉄道も江尾経由の日野川沿いルートを選んだ影響で、間地峠は平成5年(1993)に県道35号が開通するまで100年近くも見捨てられている状況でした。
一方、二部~溝口の県道46号の道筋は二重線で描かれ、江戸時代の出雲街道がジグザクに通っていた場所も一部は直線的な現在の県道の形に改良されており、まさに主要地方道という雰囲気です。これはやはり近代において険しい峠越えが避けられ、なるべく道が平坦になるようなルートが選ばれたことが想像できます。
宿場町の盛衰
江戸時代、この区間には板井原、根雨、二部、溝口の宿場がありました。
板井原はその立地からしても出雲街道があってこその集落で、伯備線の開通から徐々に衰退し、現在では人口も30人ほどしかいない状態です。しかし、この時代にはまだ郵便局や小学校も見られます。
根雨は役場はもちろん、駅や高等女学校もあり、この時代には繁栄したと思わせる市街地を持っているように見えます。たたら製鉄こそ終焉を迎えようとしていた頃ですが、それによって培われた経済力はかなりのものだったようで、現在も立派な近代建築がいくつか残っています。
二部は二部村の中心地として役場や郵便局や小学校があり、出雲街道に沿ってなかなかの街並みが形成されているように見え、日野郡の郡役所が大正12年(1923)まで存在していたことは特筆に値します。しかし、製鉄という地域の産業が失われ、鉄道のルートからも外れたことにより、衰退が始まっていくことになります。
溝口にあるのは役場、郵便局、小学校、警察署などです。溝口は江戸時代末期には新出雲街道ができたことにより一時的に出雲街道のルートから外れていましたが、鉄道や近代的な新しい道路はいずれも溝口を通り、米子・大山・日野郡と結ばれていることから、町が再び活性化しつつあるところです。
日野郡はたたら製鉄で繁栄した土地柄だけに、昭和時代以降は概して衰退していくことになりますが、こうして見ると、それなりに発展している場所はあり、当時の日野郡で根雨と溝口だけは町制を施行しています。
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