勝山神橋東詰の道標

現在ではのれんの街並みが有名になってきた勝山は、かつては旭川の水運(高瀬舟)によって繫栄してきた町で、町の西側には舟着場の跡がはっきりと残っています。そんな勝山で出雲街道が旭川を渡る橋が神橋で、東詰に道標があります。

元禄と嘉永の道標

神橋の東詰には元禄と嘉永と平成と、約150年ごとに立てられた3つの道標が並んでいます。元禄と嘉永の道標は一時的には紛失したり移設されたりした時期もあったそうですが、元の位置は神橋の東詰で、向きもほぼ合うように再設置されています。

●元禄の道標

「是より右ゆばら道」

元禄2年(1691)

元禄の道標はこれまでも出雲街道因幡備前往来でご紹介してきたものと同じ大きさとデザインのもので、勝山藩が成立する前の江戸時代前期でもこの場所が交通の要衝であったことがわかります。

●嘉永の道標

(東面)

「東 (右指差し)大仙倉吉道」

(南面)

「南 左雲伯往来」

(西面)

「西 右京大坂道」

嘉永5年(1852)

嘉永の道標は津山市内にあった城戸口重吉による兼田橋西詰の道標西寺町の道標、真庭市の追分の道標と同じくらい立派なもので、現代人にもはっきり文字が読み取れ、内容も詳しくわかりやすくなっています。元禄の道標と並んでいるので、この160年間で道標の技術も進化したことがわかります。余談ながら、平成の道標も並んでいるのでその年月の経過を比べると、元禄道標から嘉永道標までは161年、嘉永道標から平成道標までは160年と、嘉永の道標が造られた年は同じ江戸時代の元禄よりもつい最近の平成の方がわずかに近くなります。

ところで、元禄の道標は湯原、嘉永の道標も大山・倉吉と、北方向の道の分岐を示しています。現在の感覚で見れば勝山は国道181号と国道313号が分かれる場所なので当然に見えますが、江戸時代に岡山や津山や久世から湯原や大山へ向かう道は三坂峠越えがメインルートで、道標が示す勝山からの道は当時の絵図の多くには描かれていません。勝山からの道があるのなら旭川の谷を歩いたほうが楽なように思えますが、それでも三坂峠が選ばれていたのは、距離を優先していたからだと言えるでしょう。

神橋東詰に三世代の道標が並ぶ
神橋東詰に三世代の道標が並ぶ

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旧勝山町内に整備された平成の道標

もう一つ並んでいるのが平成24年(2012)の道標です。こういった道標は歴史的町並みの観光地でよく見られ、それ自体には特筆すべき価値はありませんが、この道標は旧勝山町内の20カ所に整備されているという数と、「出雲街道勝山宿の会」が企業や団体の助成を受けて設置したものであることが大きな特色となっています。

上部には矢印が付けられており、それに従えば旧出雲街道に最も近い道を辿れるようにしてあり、20カ所という数もあって、旧勝山町内では全域で迷わず出雲街道歩きを楽しめるようになっているのが大きな特色で、スマホや観光マップに頼らず道標を確認しながら旧街道を歩くという体験ができます。

旧勝山町内に20カ所ある平成の道標
旧勝山町内に20カ所ある平成の道標

また、「出雲街道を歩こう」でも度々取り上げている「出雲街道勝山宿の会」は市民有志による完全な任意の市民活動で、道標の設置だけでなく、ガイドブックの刊行、「歩こう会」の実施など、その市民活動のパワーにも驚嘆させられます。また、「出雲街道を歩こう会」の要望により、出雲街道デザインのマンホール蓋も勝山周辺の出雲街道の一部に設置されており、道に設置されるマンホールの蓋はある意味では現代の道標となっています。

出雲街道デザインのマンホール蓋
出雲街道デザインのマンホール蓋

出雲街道・大山道と周辺の道標マップ

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