【後醍醐天皇伝説】長内の椋の木

美作国における後醍醐天皇の隠岐遷幸の伝説地は幅広く分布しており、以前ご紹介した美咲町における大宮神社の大御幸桜の伝説のように近世以降の出雲街道からかなり南に外れた場所もありますが、出雲街道からそこに至るまでの中間にも伝説があります。

伝説の椋の木

美作市中心部と美咲町柵原エリアを結ぶ県道349号を行くと、下長内バス停のところに大きな椋の木があります。後醍醐天皇がこの地で食事をされ、そのときに立てた箸が生長したものだという伝説が残されています。

箸が木になった伝説は真実とは思えないようなものですが、樹齢約700年というのは後醍醐天皇の隠岐遷幸とほぼ一致しています。「後醍醐天皇の時代からあった椋の木」という言い伝えが転じた伝説と考えた方が良いかもしれません。

歴史ある道沿いの木

この椋の木に関する伝説は、作り話としか思えないものかもしれませんが、この県道349号はかなり歴史のある道だと思える要素がいくつかあります。

まず、この長内地区は林野や湯郷と以前にご紹介した美咲町百々の大宮神社のほぼ中間点にあり、笠懸の森などの美作市の伝説地と大宮神社の大御幸桜などの美咲町の伝説地を結ぶ場合に経由地となります。周辺は典型的な中国山地の農村地帯の風景が続き、特に険しい峠を越える必要もありません。

また、近くには後藤大神祇という神社があるのですが、ここは戦国時代後期に美作国東部にかなりの勢力を誇っていた後藤勝基が自刃した地です。後藤勝基は林野駅の近くにある三星城の城主でしたが、備前国をほぼ手中にして美作国に進出してきた宇喜多氏に敗れ、天正7年(1579)に三星城も落城しました。落城後に自刃したのがこの場所である理由はわかりませんが、西へ落ち延びることを模索してここまで来ていたという可能性は考えられそうです。

この県道を通る美作市営バスあおぞら号も変わった路線で、林野駅と美咲町の柵原病院前を結ぶという路線、1日2往復のバスは朝夕の通勤通学時間帯に1本ずつと、異なる町の間を結んでいた民営バス路線の名残という運行内容になっています。このことも美作市と美咲町の柵原エリアを結ぶ人の流れが古くからこの県道の道筋を通っていたと思わせる事実の一つです。

このように、後醍醐天皇の伝説がある場所は中世からの古道が存在した場所であり、伝説そのものの真偽は不明としか言いようがなくとも、そのような伝説につながった歴史があるということは確実に言えそうです。

[公共交通でのアクセス]

美作市営バスあおぞら号「下長内」下車 すぐ

宇野バス・赤磐市広域路線バス「鷺湯橋」下車 約3.8km

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