車尾の道標

米子は「【郷土の本】米子の道しるべ散歩」でもご紹介したように、昔も今も山陰随一の交通結節点であり、市内には多くの道標が残されています。中でも米子が交通の要衝であることを明確に示しているのが車尾の道標です。

多数の行先を案内

車尾の道標は東山公園駅の北、出雲街道(山陰道)の米川橋の東詰にあります。この地点は出雲街道のうち八幡の渡しで日野川を渡るルートの分岐点になります。

(北面)

「境津五リ 三穂関八リ 雲州浦邊□□ 道」

(東面)

「淀江二リ 倉吉□□ 鳥取二十二リ 尾高二リ 大仙□□ 溝口□□ 勝山 道」

(南面)

「山市場□□ 天万□□ 法勝寺□□ 二部□□ 道」

(西面)

「米子入口□□ 雲州清水□□ 広瀬五リ 松江八リ 一畑 杵築□□」

鳥取、倉吉、大山、境港、美保関(→隠岐)、米子、広瀬、松江、一畑薬師、出雲大社と、山陰の主要な都市や名所が目白押しのオールスター道標です。この場所が山陰道と出雲街道だけでなく、大山道(尾高道)や境往来にもアクセスする十字路だったことがよくわかります。

建立された年がわからないのが残念ですが、南の面に天万と二部が併記されていること、現代人にも読み取りやすい自体であることから、新出雲街道開通後の江戸時代末期か明治時代初期頃のものと推定できそうです。一方、唯一岡山県の地名である勝山が東にあり、二部と勝山が別の面に記載されているのも道の歴史という面で興味深いところです。

私有地内にあることから、これらの文字を一部しか読むことができず、内容は「米子の道しるべ散歩」から転載させていただきました。また、石の材質の関係から表面の風化が進んでおり、「米子の道しるべ散歩」が発行された平成10年(1998)と比べても文字がますます読み取りづらくなっていますが、それでも多数の行先が案内されていることはわかります。内容だけなら山陰随一と言っても過言ではないこの道標、見るなら今のうちです。

読み取りづらいが、多数の行先
読み取りづらいが、多数の行先

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古くから拠点だった車尾地区

車尾地区は米子城下町の東、日野川の西に位置します。現在では米子市街と一体化しており、スポーツ施設が集まる「どらやきドラマチックパーク米子」(どらやき生産量日本一である米子の製菓メーカーが命名権を購入)もあり、国道沿いには郊外型の店舗が立ち並んでいます。そのような意味では車社会が進展する中で発展してきた郊外の地区のようですが、旧道沿いを見ると全く様子が異なっており、古い街並みが今も残っているとまでは言えずとも、古い家屋が点在し、比較的古くから発展してきた地区であることがわかります。

旧街道沿いに家並みが続く
旧街道沿いに家並みが続く

車尾という難読地名は、元々日野川の氾濫原の湿地であったことから砂地の浜を指す「クズ」と入り江を指す「モイ」が組み合わせられてできたと言われており、この地を「くつもう」と記している古文書もあるそうです。また、一説には後醍醐天皇が隠岐遷幸の際に「尾車」という言葉の入った歌を詠まれ、その文字を入れ替えて車尾という漢字が当てられたという説もあります。私はこの地名について詳しくはわかりませんが、かなり古い時代からこの場所に村があったということだけは確実に言えそうです。車尾地区の出雲街道(山陰道)沿いには約800年の歴史を持ち、後醍醐天皇が立ち寄られたとの伝説もある国指定名勝の深田氏庭園もあります。

深田氏庭園
深田氏庭園

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