真庭市西部・新庄村の一里塚

江戸時代初期に全国の街道に整備された一里塚。出雲街道は参勤交代にも利用された街道なので、もちろん全区間にわたって一里塚が整備されていました。一里塚が保存されているところ、跡地に標柱等が整備されているところ、痕跡すらも残されてないところなど現状は様々ですが、すべての一里塚について、場所と現状をご紹介していきます。前回の真庭市東部に続き、今回は真庭市西部・新庄村の一里塚です。

なお、美作国の一里塚については、「美作地域歴史研究連絡協議会」(略称:美作歴史ネット)により、「美作の道標と出雲往来一里塚」が刊行されていますので、その内容に従ってご案内することになります。

※「出雲街道を歩こう」では「【推定イメージ】出雲街道の道筋と一里塚(Googleマイマップ)」を作成していますので、そちらもご参照ください。

神代の一里塚

所在地:真庭市神代

現状:目印なし

勝山からいよいよ山中に入る出雲街道は県道321号に近い道筋で杉ヶ乢を越え、まずは神代地区に向かいます。神代では西の若代方面への道(現在の県道459号の道筋)が分かれ、出雲街道は美甘へ向けて北上します。神代の一里塚はその分岐点の北にあったとされており、旧街道沿いに「出雲街道勝山宿の会」によって立てられた平成の道標の付近と推定されます。すぐ近くにある国道のバス停も「塚本」という名前です。

神代の一里塚はこの付近
神代の一里塚はこの付近

太井ノ坂の一里塚

所在地:真庭市田口

現状:目印なし

神代から美甘までの旧街道の道筋は現在の国道181号、新庄川に絡む旧国道のどちらとも違い、一度も新庄川を渡ることなく左岸の山中を通っていました。現在もその道跡は残されており、史跡も見られますが、崩れている個所や草木が茂った場所があり、全区間の踏破は不可能、一部区間の通り抜けも一般にはあまりおすすめできない状況となっています。そのため、一里塚の場所の特定は困難ですが、絵図では寄水の南に一里塚が描かれていること、太井ノ坂に一里塚があるという記録が残っていることなどから、新庄川右岸にある太井ノ坂の集落の対岸、すなわち真橋の東詰付近だと推測できます。

真橋から見る美甘渓谷 一里塚は左岸(写真右)にあった

当政の一里塚

所在地:真庭市美甘

現状:目印なし

美甘宿付近から新庄宿にかけては地形が一時的に穏やかになりますが、美甘宿の西では北の山が新庄川近くまで突き出しており、そこには中世の麓城がありました。その麓城跡の西側は当政集落で、城鼻に一里塚があったという記録が残っています。現在も城花という地名があり、美甘から8丁(約872m)という具体的な距離が当時の記録にも残されているので、当政集落内の城花集会所付近に一里塚があったとほぼ正確に推定ができます。

当政の集落に一里塚があった
当政の集落に一里塚があった

姿の一里塚

所在地:新庄村

現状:目印なし

真庭市の旧美甘村内ではその道筋をほぼ残している出雲街道ですが、新庄村に入って最初の大所集落から新庄宿の手前までは古い道筋は姿を消しています。新庄宿の南にあったという姿の一里塚については、姿という地名自体が一般的な地図にも掲載されず、集落もない場所なので、その場所の確認が困難です。ただ、当政の一里塚と同じく新庄から6丁(約654m)という具体的な距離の記録があるので、ほぼ正確な位置は推測可能です。

姿の一里塚はこの付近
姿の一里塚はこの付近

戸島の一里塚

所在地:新庄村

現状:標柱あり

Googleマップで見る

美作国における最西端の一里塚は戸島の集落から嵐ヶ乢に上る途中にありました。場所は後鳥羽上皇の配流にまつわる伝承地が集まる後鳥羽公園の入口で、ここから杉並木の道となりますが、江戸時代の一里塚としての堠樹は榎だったそうです。現在でも標柱と案内板が設置されています。

戸島の一里塚跡
戸島の一里塚跡

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です