真庭市東部の出雲街道一里塚
江戸時代初期に全国の街道に整備された一里塚。出雲街道は参勤交代にも利用された街道なので、もちろん全区間にわたって一里塚が整備されていました。一里塚が保存されているところ、跡地に標柱等が整備されているところ、痕跡すらも残されてないところなど現状は様々ですが、すべての一里塚について、場所と現状をご紹介していきます。前回の津山市西部に続き、今回は真庭市東部の一里塚です。
なお、美作国の一里塚については、「美作地域歴史研究連絡協議会」(略称:美作歴史ネット)により、「美作の道標と出雲往来一里塚」が刊行されていますので、その内容に従ってご案内することになります。
※「出雲街道を歩こう」では「【推定イメージ】出雲街道の道筋と一里塚(Googleマイマップ)」を作成していますので、そちらもご参照ください。
目木の一里塚
所在地:真庭市目木
現状:目印なし
出雲街道は真庭市に入ると河内の谷を横切って目木乢を越え、再び平地に出て目木川を渡る手前に目木の一里塚がありました。一里塚があったことを示す表示類はありませんが、現在、米子自動車道の橋脚が立っているところに一里塚があり、そこには一里塚という地名もあったそうです。このすぐ側では松平不昧公も称賛されたという高清水が湧いており、旅人たちにとっては良い休憩場所となっていたことでしょう。
久世の一里塚
所在地:真庭市久世
現状:目印なし
久世宿を過ぎると、次の一里塚があります。ここも表示類が整備されておらず、目印のない一里塚です。現在の久世市街の西端部は河元という地名で、国道181号が一直線になっているところの山沿いの集落は黒尾という地名ですが、河元と黒尾の境界付近に一里塚があったとされています。国道181号から黒尾の旧道が分岐し、六十六部供養塔があるあたりと推定されます。
勝山の一里塚
所在地:真庭市勝山
現状:標柱あり
久世と勝山の街の間は5km弱で、久世の西の一里塚の次は勝山の東となります。勝山においては明和元年(1764)の三浦氏入府の頃に出雲街道の道筋が変わっており、一里塚も二カ所が伝えられています。
江戸時代前期の出雲街道は北の山沿いを辿って勝山市街に入っており、一里塚は高田神社の前にありました。ここには平成30年(2018)に「出雲街道勝山宿の会」が設置した標柱が立っています。
江戸時代後期の出雲街道は南の旭川沿いを辿って勝山市街に入っていました。国道181号が出雲街道架道橋で姫新線と交差したすぐ北が古い道筋と新しい道筋の分岐点となり、新しい道筋は国道の旧道となっていますが、一里塚はその短い旧道の途中にありました。
“真庭市東部の出雲街道一里塚” に対して1件のコメントがあります。