津山市西部の出雲街道一里塚
江戸時代初期に全国の街道に整備された一里塚。出雲街道は参勤交代にも利用された街道なので、もちろん全区間にわたって一里塚が整備されていました。一里塚が保存されているところ、跡地に標柱等が整備されているところ、痕跡すらも残されてないところなど現状は様々ですが、すべての一里塚について、場所と現状をご紹介していきます。前回の勝央町・津山市東部に続き、今回は津山市西部の一里塚です。
なお、美作国の一里塚については、「美作地域歴史研究連絡協議会」(略称:美作歴史ネット)により、「美作の道標と出雲往来一里塚」が刊行されていますので、その内容に従ってご案内することになります。
※「出雲街道を歩こう」では「【推定イメージ】出雲街道の道筋と一里塚(Googleマイマップ)」を作成していますので、そちらもご参照ください。
京橋(美作国の一里塚の基点)
所在地:津山市山下
現状:京橋御門跡の石碑がある
美作国の一里塚の基点は津山城から出雲街道に出る京橋でした。現在では橋が架かっていた堀はなく、美作国の一里塚の基点だったことを記した案内板等はありませんが、写真の石碑などが整備され、周辺の建物の並び方からもここにかつての堀があったことは十分に想像できる場所です。
二宮の一里塚
所在地:津山市二宮
現状:旧々伯耆街道分岐点の標柱がある
津山から西の最初の一里塚は二宮地区にありました。東にある玉琳の一里塚が鳥取方面への道の分岐点にあったのと同様に、こちらの一里塚があるのも倉吉方面への道の分岐点です。ただ、玉琳の一里塚とは違ってこちらは京橋からの距離はほぼ正確に一里となります。現在、一里塚の跡であることを示す表示類はありませんが、出雲街道と旧々伯耆街道の分岐点の標柱が立てられています。
一里塚とは関係ありませんが、一里塚跡(街道分岐点)のすぐ西には首なし地蔵があります。首のない5体の地蔵は、享保11年~12年(1726~1727)に起きたこの近くにあった形状で磔にされた山中一揆の首謀者格の人達を祀るものです。山中一揆は全国的に見ても大規模な一揆で、江戸時代の美作国を語る上では忘れてはいけない歴史です。
茶屋の一里塚
所在地:津山市領家
現状:切株と標柱あり
伯耆街道分岐点からの出雲街道は国道181号の南側を進み、初めて国道と久米川を渡った先の集落内に次の一里塚があります。樹齢約360年という当時からの榎が近年まで生き残っており、惜しくも枯死したため切られてしまったものの、現在も太い切株が残されているため、当時の一里塚の場所が正確にわかります。なお、すぐ脇にある若い榎の木は、一里塚の榎の根から芽生えてきたものだそうで、一里塚のDNAはこれからも受け継がれていきます。
坪井の一里塚
所在地:津山市坪井下
現状:標柱あり
津山の次の宿場は坪井で、その東端近くに一里塚があります。津山市の旧久米町エリアでは江戸時代の一里塚跡に標柱が整備されているとともに、明治時代の津山元標里程標も三里と四里のものが残っているので、それらの正確な位置がわかり、比較することもできます。津山から坪井までは当時の資料で三里八丁(約12.7km)と記録されていますが、一里塚で見ると三里少々となり、また、明治の里程標と比較してみると、津山から二里と三里の里程標のほぼ中間点に坪井の一里塚があり、江戸時代の一里塚が不正確なものであったことがわかります。
追分の一里塚
所在地:津山市坪井上
現状:標柱あり
次の一里塚は津山市の最後の最後、真庭市との境界近くにあり、茶屋や坪井の一里塚跡と同様の標柱が設置されています。追分は備中方面への街道分岐点であり、150mほど西に道標がありますが、道標の位置は真庭市、一里塚跡の位置は津山市です。ここも街道分岐点のすぐ側に一里塚という位置関係になっており、想像に過ぎませんが、一里塚の整備については正確に距離を刻むことよりも交通結節点に寄せた目印にすることを重視するという考えがあったのかもしれません。
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