大成の道標
大山道の道標の中で、他の大山道道標からも、昔の主要な街道からも、現在の主要な道路からも離れた場所に存在しているのが鏡野町中谷地区大成の道標です。数多くの大山道道標の中でも忘れ去られた山中の大山道の存在を示す道標として特筆されます。
鏡野町の山里に道標
大成の道標は鏡野町中谷地区を東西に横切る県道82号から北に外れ、地区内北部のいくつかの集落を結ぶ道から大成集落への道が分岐する地点の近くにあります。一度は倒れていたところ、付近の家の前に立て直されたため、大成川の西に少しだけ移動しています。
「右ハ大せん」
「左ハ久世」
明和7年(1770)
ここで右折するのが大山道です。現在は大成の集落内の道となっていますが、地理院地図で見ると点線の道となって旧富村の宿集落につながっており、昔の人が利用しそうな旧富村へのショートカットコースとなっています。宿の集落も地名が示す通り大山道の宿場となっており、一里塚の榎も残っているそうです。現在では地元集落の人しか通らなさそうなこの場所もかつては多くの往来があったと想像できます。

出雲街道の裏道となっていた中谷地区
鏡野町中谷地区は鏡野町の西部に位置し、中谷川の谷を真庭市久世方面への県道82号が東西に通っています。出雲街道から見ると山一つ裏側に位置する谷で、地形は案外穏やかです。高瀬舟の船着き場もあり、昭和の合併まで存在した旧中谷村の中心地区だった湯指の集落には「出雲裏街道」と題した案内板も設置されています。この呼び名は昔からあったものではないでしょうが、鏡野町の旧富村エリアや大津神社のある真庭市の余野地区への利用だけでなく、山陰へつながる出雲街道の裏道としての利用もあった道筋であったことを想像させます。

また、中谷地区の史跡として南北朝時代に近衛経忠が自刃したとされる近衛殿という史跡も見逃せません。関白にまで上り詰めた貴族が失脚していたとはいえ、このような場所で自刃したという話は史実とは思えないような伝説ですが、このような伝説が生まれるにはそれなりの背景はあるはずです。これは想像に過ぎませんが、南朝方の劣勢の中、美作や伯耆・出雲の武将たちと連絡を取ろうと、南朝方の公家や武将がこの出雲街道の裏道を利用していたのかもしれません。

出雲街道・大山道と周辺の道標マップ:当ブログと連動したGoogleマイマップです。