大平峠を越える大山道

真庭市久世は出雲街道と大山道が交差し、岡山県内最大の牛市が開かれた町として知られており、現在も博労宿をルーツとする旅館が何軒も残っているなど、その名残が残されています。しかし、東から出雲街道で来て大山まで行くとしたら、久世を経由するのは少し遠回りとなるため、久世をバイパスしてその東を北上していくルートも利用されており、小谷善守氏の「昭和40年代にたどった大山道」でもその道筋が語られています。

鏡野町兼秀の集落

前回、東から三坂峠へ向かう大山道をご紹介しましたが、久世の東の方にはもう一つ大山道として利用されていた道筋があり、それが県道326号のルートです。久世・目木方面から県道65号で余川の谷を上り、山生集落への分岐からさらに2km少々進んだところが分岐点になります。

県道65号から分岐すると1kmほどで鏡野町(旧富村)の富西谷地区に入り、さらに谷を1km弱遡ると兼秀の集落があります。県道326号の大平峠以東の沿線では唯一の集落であり、同じ富西谷地区の隣の集落からも(道なりの距離で)4kmほど離れています。「昭和40年代にたどった大山道」によると「ザントウガナル」という地名もあるそうで、他の集落と隔絶された立地、兼秀という人名を思わせる名前も含め、落ち武者が隠れ住んだ場所だと言い伝えられています。

落ち武者が住み着いたと伝えられる兼秀の集落
落ち武者が住み着いたと伝えられる兼秀の集落

兼秀の集落を過ぎて道が険しくなってきたところに、「駒帰り」と呼ばれる場所があります。その名の由来は隠岐配流の途中、後醍醐天皇の一行があまりの険しさに引き返したという伝説に基づくものです。これも大平峠を越える道筋が古くからあるからこそ生まれた伝説と言えるでしょう。

後醍醐天皇伝説の駒帰り
後醍醐天皇伝説の駒帰り

大平峠が近づくと一時的に地形が少し穏やかになり、峠に至ります。兼秀からも釘貫からもかなり離れた場所ですが、この峠にも三坂峠と同様に茶屋があったそうです。

大平峠
大平峠

大平峠を過ぎると一気に下っていき、わずかに平地が開けてきたところで釘貫の集落に入り、同時に三坂峠を越えてきた大山道と合流します。合流点近くには道標があり『右 三坂山 くせみち 三里 左 をくむろ』と刻まれています。「をくむろ」がどこなのか私にはわかりませんが、湯原方面から見て右の三坂峠だけでなく左も道標に記載するだけ道筋があったことのは確かです。

釘貫の道標
釘貫の道標

道路として生き続ける道

このルートの利点は三坂峠を避けられることでしょう。地図上では山生から三坂峠に向かう方が近く見えますが、大平峠経由の道筋は先述した駒帰りのような難所はあっても比較的穏やかな道のりであり、標高を見ても三坂峠は約750m、大平峠は約570mと、数字の上でもその差は明白です。

このことは近代以降の道路整備にも表れており、宮崎県が運営しているひなたGISで閲覧可能な大正14年(1925)の岡山県古地図では、湯原エリアで二重線で描かれている唯一の道路がこの道筋であり、現在も三坂峠と違って古道の道筋ほぼそのままの県道326号で自動車で通過可能です。(ただし、初心者ドライバーにはおすすめできないような「険道」なので注意が必要)

湯原エリアの平地を除くと兼秀しか集落がないようなルートの県道326号ですが、県道に指定されているのには歴史や地形による理由があると言えます。

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