津山城西地区にあった城戸口重吉の道標
津山には明治時代に城戸口重吉という人物が立てた立派な道標が2つあります。1つは以前にご紹介した兼田橋西詰の道標で、もう1つが城西地区の妙法寺北の交差点にあったという道標で、現在は津山郷土博物館の前に保存されています。
津山の玄関口にあった道標
この道標があった交差点は城西地区の西今町と西寺町の境で、南には岡山方面への道が接続し、この道は後には中国鉄道の津山駅(現在の津山口駅)から中心市街へのメイン通りとなりました。
(北面)
「右 作州木山宮六里 伯州大せん廿十四里 雲州一はた薬師三十七里 雲州大社四十二里」
「左 大坂かうや山六十四里 □□いせ大神宮八十九里」
(東面)
「左 作州たん生寺三里半 備前おか山 同神道黒住教十五里 讃州こんぴら三十四里 道」
明治20年(1887)
津山まで来た、あるいは津山から旅立つ人々に主要な神社仏閣を案内する内容で、幕末から広まった当時新興の黒住教が含まれていることにも時代を感じさせます。また、明治20年(1887)頃には岡山方面の道の改良が行われ、この交差点は名実ともに津山の玄関口と言える場所となり、スポンサーとなった城戸口重吉の商売人としてのセンスも感じます。
津山郷土博物館前には道標多数
津山郷土博物館の前にはこの他にも多くの道標が保存されており、内容を読み取ったり、元の設置位置を推測するのも面白いです。例えば、城西地区の坪井町に設置されていた道標は南面が「左 出雲」、西面が「右 京 大坂」「左 一ノ宮」とあり、出雲街道と津山を象徴するような道標です。
また、明治時代のものでは、当ブログでも何度かご紹介している津山元標の里程標の一部や、明治31年(1898)に開通した中国鉄道(現在のJR津山線)の津山駅(現在の津山口駅)を案内する明治43年(1910)の道標も保存されています。
“津山城西地区にあった城戸口重吉の道標” に対して1件のコメントがあります。