勝央町・津山市東部の出雲街道一里塚
江戸時代初期に全国の街道に整備された一里塚。出雲街道は参勤交代にも利用された街道なので、もちろん全区間にわたって一里塚が整備されていました。一里塚が保存されるところ、跡地に標柱等が整備されているところ、痕跡すらも残されてないところなど現状は様々ですが、すべての一里塚について、場所と現状をご紹介していきます。前回の美作市に続き、今回は勝央町・津山市東部の一里塚です。
なお、美作国の一里塚については、「美作地域歴史研究連絡協議会」(略称:美作歴史ネット)により、「美作の道標と出雲往来一里塚」が刊行されていますので、その内容に従ってご案内することになります。
※「出雲街道を歩こう」では「【推定イメージ】出雲街道の道筋と一里塚(Googleマイマップ)」を作成していますので、そちらもご参照ください。
五厘田の一里塚
所在地:勝央町黒坂
現状:標柱あり
勝間田宿がある勝央町では唯一の一里塚で、勝央町西端の黒坂地区にあります。この付近では旧街道が国道179号や姫新線の線路になったため、一里塚の跡は残されていませんでしたが、当時の絵図でも五厘田池の側に一里塚が描かれていて場所がほぼ特定されていたこともあり、令和4年(2022)に一里塚跡の標柱が設置されました。
新田の一里塚
所在地:津山市新田
現状:目印なし
津山市の東部では国道179号と何度も絡み合いながら旧道が続き、旧街道の道筋が現在でもはっきりとわかります。その旧道が広戸川を渡る大渡橋の少し北に一里塚がありました。今は何も残されておらず、表示もされていませんが、当時の絵図にも記載され、大渡橋の北には一里塚という屋号の家もあるそうです。
玉琳の一里塚(街道分岐点)
所在地:津山市川崎
現状:石仏や再建道標などがある
現在の津山市街に入り、江戸時代の津山城下町に入る手前にある玉琳という場所は江戸時代には津山から姫路方面の道と鳥取方面の道が分かれる場所でした。その交差点が津山城(京橋)から最初の一里塚でした。津山城(京橋)から玉琳までの距離は明らかに一里もないため、東の出雲街道と北の因幡道における一里塚は実質的にはこの場所を基準にしていたと言えます。
この場所が一里塚であったことを示す表示類こそ設置されていないものの、古い石仏等が置かれているだけでなく、かつてこの場所にあった元禄2年(1691)の道標に似せたデザインの道標も再建されているので、旧街道の分岐点であったことは現在でもよくわかります。