出雲街道を戦前の地図で辿ってみよう(真庭市 勝山~美甘・新庄村)

「ひなたGIS」は宮崎県が運営しているGISシステムです。前回(真庭市 追分~勝山)に続き、この「ひなたGIS」で戦前の地図を見ながら、真庭市(勝山~美甘)と新庄村の出雲街道を辿ってみましょう。(なお、この地図は米国スタンフォード大学が所蔵するものです)

道の概況と変遷

勝山から出雲街道はいよいよ険しい山間部にかかります。道は山の中あるいは山沿いを行く旧街道の細道と、曲がりくねりながら新庄川に沿う明治の旧国道、そして高度経済成長後の自動車交通に対応した現在の国道181号がはっきりと分かれる区間が多くなります。

勝山~神代では、江戸時代の出雲街道は現在の県道321号沿いで杉ヶ乢という峠を越えるルートで、現在の国道181号は新庄川に沿って遠回りしています。その中間の時代にあたるこの地図で見ると、ここは両方の道筋が二重線で描かれており両者が共存しています。この状況は現在でも同じで、旧街道ルートは県道として生き残り、その狭さを気にしない慣れたドライバーには近道としてよく利用されています。

今も昔も国道と共存する県道

神代~美甘では、江戸時代の旧街道は山の中を縫う完全な山道で、自動車どころか荷車すらも通れないような道です。さすがに近代の道として改良されることはなく、明治時代には新庄川沿いに旧国道が整備されました。それでも狭い地形の中なので急カーブが多く、戦後の自動車交通には対応しづらい道でした。拡幅が困難だったりすることが理由と思われますが、現在の国道として利用されている箇所は多くありません。

江戸時代の山間部の街道

美甘~新庄では、地形が穏やかになります。江戸時代の旧街道は山沿いを通っていましたが、明治の旧国道は田園地帯を直線的に貫く形に改められ、それが現在の国道181号になっています。新庄宿の手前で新庄川を渡って新庄宿に入ることが現在との違いで、日露戦争の戦勝を祝して植えられたという「がいせん桜」は、村内随一の幹線国道の街路樹として植えられたものです。

がいせん桜が植えられた当時は幹線道路

旧国道を辿る

旧美甘村の南部ではごく一部を除き、旧国道の道筋が国道とは別に長く続いています。国道の猿飛橋から湯谷バス停付近までは概ね新庄川右岸を通る現国道に対し、旧国道は左岸を通ります。湯谷バス停付近でいったん両者は重なりますが、またすぐに分かれて旧国道は引き続き新庄川の左岸(美甘橋~真橋のみ右岸)を通ります。そして、首切峠を越えて美甘宿に入ります。

新庄川左岸を行く旧国道

この間の集落は延風と太井ノ坂が右岸にあるものの、右岸の山はほぼ無人地帯で、左岸には少し山に入ったところにもいくつかの集落があります。なお、江戸時代までの出雲街道が一貫して左岸を通っていました。

旧国道から見る美甘渓谷

そして、ほぼ左岸というルートになった最大の理由は当時は橋を建設するのがネックだったことだと考えられます。旧国道が新庄川を渡る橋は美甘橋と真橋がありますが、いずれも当時の技術の粋を集めて建設されたという雰囲気があります。アスファルトで舗装こそされているものの、今となっては通る車もほとんどなくなった旧国道は戦前の山間部の幹線道路の雰囲気をよく残しています。

真橋

美甘~新庄では旧国道は現国道に吸収されていますが、新庄から四十曲峠までの間も旧国道は残されています。新庄から江戸時代の出雲街道と同じ道筋で戸島の集落を通り抜け、嵐ヶ乢に向かう旧街道に対して、旧国道は現国道の四十曲トンネルの方へ向かいます。自動車で辿れるのは四十曲トンネルの少し北、二ツ橋集落への道との交差点跡までで、そこから先は実際に行ったことがないのですが、相当に荒れた道となっています。峠付近には「東宮殿下行啓記念」と記された大正15年(1925)の県界碑があるそうで、大正の東宮殿下、すなわち昭和天皇もこの峠を通られています。

戸島集落で旧街道と旧国道が分かれる

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