出雲街道を戦前の地図で辿ってみよう(松江市)
「ひなたGIS」は宮崎県が運営しているGISシステムです。前回(安来市)に続き、この「ひなたGIS」で戦前の地図を見ながら、松江市の出雲街道を辿ってみましょう。(なお、この地図は米国スタンフォード大学が所蔵するものです)
道の概況と変遷
安来市と松江市の境界付近こそ中海沿いを通る出雲街道(山陰道)ですが、松江市に入ると江戸時代の出雲街道、近代の旧国道、現在の国道9号とも中海から少し距離を置くようになります。
現在の国道9号と比較すると、旧国道はやや北寄りを通る区間が多く、揖屋や出雲郷では昔からの街並みの中を通っています。中でも揖屋はそれなりに広い市街地を形成しており、出雲街道の沿線の中で宿場町以外で唯一町制を施行しています。
松江市街が近づくと、手間天神社付近に踏切があってそこからしばらくは大橋川にぴったりと沿った道筋となっていたり、松並木が続いていた津田の旧街道がそのまま近代の道としても利用されていたりします。これらの旧国道はその多くが現在も残存しており、幹線交通こそ国道9号や山陰自動車道に移っているものの、地元に欠かすことのできない道路です。
江戸時代の旧街道と比較すると、半島状になった崎田鼻の付け根をショートカットするような道筋が作られていたり、竹矢から矢田にかけての丘陵沿いの道が大橋川沿いに移っていたりするのが違いです。地形の関係で坂やカーブが多くなっていた場所について、近代の道路にふさわしいルートに改められたというところでしょう。
水都松江の橋と町
松江と言えば、宍道湖畔の都市であるとともに、宍道湖と中海を結ぶ広い大橋川もあり、また、城下町の堀や人工的な水路も多い水の都です。江戸時代初期から大橋川に存在するのが日本100名橋の松江大橋で、いつ頃生まれた言葉なのかは知りませんが、松江市街を大橋川で南北に分け、「橋南」「橋北」と呼ぶことがあります。
その大橋川の2本目の橋がこの地図にも見られる新大橋で、昭和9年(1934)に架設されました。町外れに設置された松江駅の周辺も市街化が進みつつあるように見え、その新しい市街を結ぶ橋の開通は松江の町を変える大きなできごとだったでしょう。なお、松江大橋についても近い時期の昭和12年(1937)に17代目にあたる現在の橋に架け替えられています。
橋南では天神川に竪町と天神町を結ぶ天神橋が旧街道の橋で、その北では江戸時代と変わらず道が曲げられ、広場が設けられています。また、白潟本町には鉤型路も見られます。白潟は当時の松江を代表する商業地で、密集した市街地が形成されていたものと思われます。大正15年(1925)に建てられた島根県初の鉄筋コンクリート建造物である出雲ビルも白潟本町に現存しています。
橋北では宍道湖の湖岸線が現在より北にあるのがまず目につきます。一畑電車の北松江駅(現在の松江しんじ湖温泉駅)が宍道湖のすぐ側に見えますが、ここでは駅や線路が移動したのではなく、湖岸線の方が移動しています。この場所から湧出している松江しんじ湖温泉の開湯は昭和46年(1971)で、戦前には存在していません。
松江城周辺では京橋川などの堀に多数の橋が架けられ、城の一部が島根県庁等になっているのは現在と変わらず、明治時代以降、島根県の県庁所在地としての都市整備がなされたことがわかります。しかしながら、戦前、戦後を通して堀のネットワークや、町割り自体はほとんど変化がありません。