出雲街道を戦前の地図で辿ってみよう(安来市)

「ひなたGIS」は宮崎県が運営しているGISシステムです。前回(伯耆町 旧岸本町・米子市)に続き、この「ひなたGIS」で戦前の地図を見ながら、安来市の出雲街道を辿ってみましょう。(なお、この地図は米国スタンフォード大学が所蔵するものです)

道の概況と変遷

米子以西は鉄道は山陰本線、道路は国道9号。中国山地を越えてきた鉄道の姫新線や伯備線、道路の国道179号・国道181号と比べても「格上」です。それだけに鉄道、道路ともにその整備は早く進んでいます。

現在の国道9号の道筋と比較すると、八坂や門生坂の坂道を避けて少し迂回していること、安来~荒島では江戸時代の旧街道に近い道筋となっていることなど、かなり大きな違いがあります。この間、戦前の地図では曲がり角や急カーブも散見され、踏切も多く存在するなど、戦前としてはよく整備された道路と言っても、戦後の自動車の時代には時代遅れになり、既存道路の改良ではなく、道筋自体を変える必要があったのでしょう。

急カーブで踏切を渡る旧国道

それでも江戸時代の旧街道と比べると、かなりの違いがあります。例えば家屋が密集して直角カーブもある吉佐の集落をバイパスしていたり、旧街道が越えていた細井坂や百田坂は別の道筋に付け替えられていたり、赤江小学校付近の道が直線的になったりと、近代の道としての体裁が整えられています。

百田坂は近代以降の道路にはならなかった

なお、この旧国道は現在もほとんどの区間でそのまま残されており、実際に通ってみると生活道路として地元住民が自動車でも自転車でも徒歩でも多く利用しており、荒島駅付近などでは路線バスも通っています。

旧国道は地元の生活道路

中海の湖岸線の変化

安来市と言えば、全国の湖でも第5位の面積を誇る中海の町。江戸時代には北前船が寄港する港町であり、一方、陸路(出雲街道)でも中海のうなぎが中国山地を越えて大坂や京都へ運ばれていました。しかし、その中海の面積は戦前、戦後を通して狭まり続けており、ここではその湖岸線の変化を見てみましょう。

現在では湖岸線から少し距離のある吉佐地区はかつては中海に面しており、現在、道の駅あらエッサなどがある中海町は存在していません。八坂を越えた西の門生地区、さらにその西の島田地区も同様で、その北にある現在の穂日島町は戦後の大規模な干拓地です。この辺りの景色は現在とは全く違うものだったでしょう。細井坂では江戸時代の旧街道はかなり内陸に入ったところを通っているように見えますが、この地図を見ると近代以降の線路と道路が谷をふさぐ堤防のようにも見え、かつては集落のある手前あたりまで中海が入り込んでいたようにも見えます。

この辺りの景色はかなり変わったはず

港町として発展していた安来市街付近は現在と大差なく、天然の良港である安来港は自然地形の良さが活かせるようにされています。安来以西は概ね現在の湖岸線と変わりませんが、荒島では現在の町の一部は湖であり、かつての道は湖岸線に沿って通っていたことがわかります。

安来港

このように安来市は中海を干拓して平地を広げていった地域ですが、中海は塩分を含む汽水湖であり、農地開発にあたってはその塩分の存在が大きな問題であり、中海全体の淡水化も図られていた(平成14年(2002)に事業中止)ほどでした。近代以前には「汐土手」と呼ばれる堤防が築かれ、中海の水の浸入を防ぐことがその対策となっていました。この汐土手は江戸時代基準では道路となりうるだけの幅があるため、現在の河川の堤防道路と同じように、街道としての役割を兼ねているところもあり、出雲街道(山陰道)は吉佐地区や赤江地区で汐土手の上を通っています。これらの汐土手は現在の湖岸線からはかなり離れており、かつてはこのあたりまで中海の水が来ていた(来ることがあった)ことが実感できる場所となっています。

汐土手は道としても使われた

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