出雲街道を戦前の地図で辿ってみよう(姫路市~たつの市)
「ひなたGIS」は宮崎県が運営しているGISシステムで、古道・街道を好む人にとっては全国の戦前の地図(明治時代後期の測量、昭和初期の情報を記載)がサクサク閲覧できることが最大の魅力と言えるでしょう。この「ひなたGIS」を見ながら出雲街道を辿ってみましょう。(なお、この地図は米国スタンフォード大学が所蔵するものです)
道の概況と変遷
この区間は現在の道路と近い道筋となっており、国道2号と県道724号、国道179号の道筋は概ね完成しつつあることがわかります。
現在の地図と比較して違う点は、姫路市街があまり拡大しておらず、市街化している範囲が江戸時代からの城下町のエリアとほぼ一致していることがまず挙げられ、写真のように住宅地が郊外まで続くようなことはなかったようです。
姫路市とたつの市の境となる追分峠のルートも大きな違いがあり、ここは江戸時代の旧街道そのままとなっています。
また、これは全国共通のことですが、国道2号や県道724号(旧国道29号)は旧国道のルートとなっており、各市街地をバイパスしたり田園地帯を一直線に突っ切ったりするような道路の改良があまり見られない点も現在とは異なっています。
次に江戸時代の出雲街道と異なる点を探してみましょう。
まず、出雲街道の分岐が青山になっており、江戸時代の絵図に描かれている下手野から北上する道は存在していません。これは現在の夢前橋にあたる橋が架けられた影響でしょう。なお、この橋は現在の夢前橋より少し北にあり、下手野と青山の旧道同士を結んでいます。その川を渡る橋がなく、出雲街道は青山で山陽道から分岐する形になっています。
また、觜崎から揖保川を渡った後の経路が、江戸時代までの旧街道が栗栖川沿いを通っているのに対し、揖保川沿いを北上する現在の国道179号に近い道筋になっているのも大きな違いです。
現存する道標から考える
この区間は出雲街道の中では道標が多く残されているのが特徴なので、現存する道標の位置を見てみます。
まず、山陽道からの出雲街道分岐点について、下手野と青山に道標があります。下手野の道標が立つのは現在の県道516号との交差点。この道標自体が少し移設されたものだそうですが、ここは夢前方面への道の分岐点とはなるものの、先述の通り出雲街道・因幡街道の分岐点となっていません。一方、青山の道標が立つ場所からは江戸時代の絵図には描かれていない現在の県道724号(旧国道29号)の道筋が交差しており、こちらが重要な交差点となっています。下手野の道標が明和4年(1767)のもの、青山の道標が安政2年(1855)のものなので、その間に利用される道筋が変わったことが想像できます。
次に飾西宿付近の道標について、現在の飾西宿の東入口は中央に道標と花壇がある変則的な形状の交差点となっていますが、この地図でもこの交差点は存在しており、出雲街道・因幡街道が西に曲がり、北への道が分かれる場所となっています。その北で書写山方面の道が分岐していますが、これは昭和4年(1929)に立てられた町田の道標が立つ交差点です。
最後にたつの市神岡町の道標です。現在、追分の道標が立つ地点は当時の因幡街道と出雲街道の分岐点でした。因幡街道と言えば、大原・智頭経由のルート(現在の国道179号~国道373号~国道53号)が鳥取藩の参勤交代に利用されてきましたが、この時代になると最短距離となる山崎・若桜経由のルート(国道29号)が鳥取まで途切れることなく二重線で結ばれており、そちらが姫路~鳥取のメインルートに変わったものと推測できます。
また、林田川の西、荒神社の脇にある道標も追分の道標に近い内容が記載されている道標で、現在の県道724号の鳥井橋より少し北にあるのは当時の道筋と一致しています。追分の道標は明治19年(1886)、西鳥井の道標は明治34年(1901)と近い時期の道標で、この戦前地図と見比べると設置位置も記載内容もしっくりくる道標です。
播電鉄道と姫津線
明治から昭和戦前と言えば、全国津々浦々で鉄道が開通し、また、鉄道が開通していなかった地域では鉄道を誘致する運動が盛んにおこなわれた鉄道発展の時代でした。
この地図でこの地域を見たとき、最も目を引くのが播電鉄道の存在でしょう。特に龍野から新宮にかけては国鉄姫津線と2本の鉄道が競合する形になっています。
播電鉄道はまさに地元の熱意によって建設された鉄道と言え、網干では現在の山陽電鉄網干線よりも、龍野・新宮では現在のJR姫新線よりも先に開通しています。しかし、地域の中心都市である姫路と直結する国鉄姫津線が昭和7年(1932)に開業すると利用が激減し、昭和9年(1934)に全線廃止となっています。廃線からおよそ90年が経過したこの鉄道路線の痕跡はほとんど残っていませんが、新宮町駅跡には案内板が設置されており、廃線敷を転用した道が地元で「電車道」と呼ばれているなど、わずかながら歴史は残っています。
国鉄姫津線はもちろん現在の姫新線のことです。姫津線でも「きしんせん」と読めますが「ひめつせん」と読むそうです。この地図では姫路~播磨新宮のみが開通しており、播磨新宮~津山は、因美線として東津山~津山が開通しているのみです。津山~新見は作備線として既に全線開通しており、姫津線が津山までつながったとき、因美線の東津山~津山の所属路線を変更し、姫路~津山の姫新線が全線開通することになります。
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