出雲街道を戦前の地図で辿ってみよう(伯耆町 旧岸本町・米子市)

「ひなたGIS」は宮崎県が運営しているGISシステムです。前回(日野町・伯耆町 旧溝口町)に続き、この「ひなたGIS」で戦前の地図を見ながら、伯耆町(旧岸本町)と米子市の出雲街道を辿ってみましょう。(なお、この地図は米国スタンフォード大学が所蔵するものです)

道の概況と変遷

米子平野では現在の国道181号が概ね整備されている様子です。出雲街道は現在の伯耆橋で日野川左岸に移り、直線的に米子市街を目指しています。米子市街に入ってからの道筋だけは現在とは異なり、伯陽電鉄の米子町駅の脇を通って「増屋の角」で旧出雲街道(旧山陰道)と合流します。米子市内(当時)は江戸時代末期に整備された新出雲街道に近い道筋です。

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一方、江戸時代の出雲街道の道筋は八幡の渡し経由と車尾の渡し経由が主なものでした。八幡橋はまだ架けられておらず、こちらの道筋は主要道とは言えない状態になっているように見えます。車尾の渡し経由の道筋は現在も路線バスが通る古豊千地区経由の道が描かれており、山陰道と合流、日野橋で日野川を渡ります。渡れば車尾地区で、当時はまだ米子市と合併していない車尾村ですが、出雲街道(山陰道)沿いは既に市街化しています。

市街の西では愛宕山の西北を通る現在の国道9号の道筋ができています。この時点では中海の湖岸を辿るルートだったようです。そして現在の国道の道筋で島根県に入っていきます。江戸時代の旧街道はもう少し南で小さな峠を越えていたのですが、そこには鉄道が通っているため、この時代の地図からは既に姿を消しています。

日野川の橋と渡し

江戸時代には橋が架けられていなかった日野川ですが、昭和初期になるといくつかの橋が架けられています。現伯耆町から河口までの橋を見ると、鬼守橋、伯耆橋、日野橋(名称はいずれも現在のもの)の3つがあります。一方、昭和橋、三和橋、八幡橋付近には渡し舟のマークが見えます。

昭和4年(1929)に架け替えられた日野橋は今も現役であることに象徴されるように、この頃は近代化により架橋技術が飛躍的に高まっており、日野川のような大きな河川にも現在の国道クラスの道路には続々と橋が架けられています。先述した橋を見ても、国道・主要地方道クラスの道路の橋はこの時代には存在し、ローカルな道の橋はまだ架けられていない状況です。

出雲街道とは直接関係しませんが、現在の米子都市圏で最も繫栄していると言える皆生温泉から日吉津にかけては橋はおろか渡し舟もありません。道に沿って街村は見られるものの、基本的には田園地帯です。この辺りが現在のように発展するのは米子自動車道や山陰自動車道が開通し、境港への国道431号のルートが現在のように整備されてからとなります。

大山への道

「だいせんみちを歩こう」で(一部未完成ですが)ご紹介しているように、大山牛馬市への道は南から時計回りに横手道、溝口道、丸山道、尾高道、坊領道、川床道の6つがありました。

主な見どころを挙げていくと、横手道では現在の江府町内において、現在の地理院地図からは点線すらも抹消されてしまった古道の道筋が描かれています。また、大山の西側では一丁地蔵が並ぶ古い道筋が現役です。

溝口道はいち早く整備され、概ね現在の県道の道筋となっており、旧道にはなりますが昭和9年(1934)に架けられた登山橋も現役です。

丸山道は現在と同じように生活道路としての性格が強く、日野川の谷へ向けた道路が先に整備されています。

尾高道は溝口道と同様、尾高から大山まで二重線で結ばれています。大山観光道路は戦後の開通のため、一部は集落に立ち寄りながらの道路となっています。

坊領道は大山口駅に向けて道路がよく整備されています。しかし、よく見ると、鈑戸地区内においては現在の県道158号より少し東にずれており、これは一丁地蔵が並ぶ古道の道筋と思われます。

川床道はその険しさからか関金方面、赤碕方面とも二重線で描かれるような道路は整備されていません。ただ、現在の道筋とは少し異なる部分がありながらも関金や赤崎にしっかりとつながっています。

こうして見ると、この時代は、人が歩いて旅をし、牛馬の力で物を運んだり作業をしたりする時代から、鉄道や自動車に乗って旅をしたり物を運んだりし、近代的な機械で作業を行う時代への過渡期でした。大山牛馬市の最末期は、歩いて旅する古道の時代の最末期でもあったと言えます。

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