兼田橋西詰の道標

出雲街道にもたくさんの道標があり、道の歴史を今も語り続けています。今回ご紹介する兼田橋西詰の道標は、その内容がユニークなものとして特筆されます。

道標の示す地名と道

南面

「右 播州ひめぢ 二十一里

   信州善光寺 百五十五里」

「左 津山大はしへ 三十一丁」

西面

「左 いなば鳥取へ 拾八里半」

   高円ぼだいじへ 六里」

明治期の道標だけに文字も読みやすく、距離の表示もあります。この場所は姫路への姫新線と鳥取への因美線が分岐する東津山駅と姫路への国道179号と鳥取への国道53号が分岐する河辺交差点の間にあり、現在でもほぼ通用する内容の道標とも言えます。江戸時代には出雲街道と津山からの因幡道の分岐点は兼田橋から1kmほど西の玉琳でしたが、この道標が立った頃には現在の因美線に近い道筋に変わっていたこともわかります。

兼田橋西詰の道標
大きくはっきりとした文字が印象的

「高円ぼだいじ」とは奈義町にある大イチョウで有名な菩提寺です。津山から鳥取県境までの間では規模としても知名度としてもトップクラスの寺です。

そして最後に信州善光寺。少なくとも出雲街道にある道標に登場する行先の中では図抜けて遠い場所です。古い道標で遠くの地名が案内されるのは伊勢神宮が定番ですが、全国的に有名な寺とは言え、なぜ600kmも離れた善光寺が選ばれたのかは謎としか言いようがありません。

個人が設置した道標

兼田橋西詰の道標は津山で油屋を営んでいたという城戸口重吉という個人が私費で設置した道標であり、道標の北面には「もろ人に此よの道はをしふれど さきの世まではわからざりけり」という歌とともに城戸口重吉の名前が刻まれています。

この城戸口重吉は津山の城西地区、妙法寺の北の角にも道標を設置していました。こちらも津山から山陰方面(大山、出雲大社など)や岡山方面(誕生寺、金毘羅など)、姫路方面(大阪、伊勢神宮など)を距離付きで案内する立派な道標で、現在は津山郷土博物館前に保存されています。

津山郷土博物館前の保存道標
津山郷土博物館前には城戸口重吉の道標など多くの道標が保存されている

城戸口重吉が2つの道標を設置したのは自らの商売の宣伝のためと思われますが、明治20年代、津山に東西南北どの方向から出入りしようともこの道標を見ることになるような状況となり、広告効果は抜群だったことでしょう。

そして、お金を持った個人の私費による道標なので、先述したように歌を道標に彫ってみたり、行先として信州善光寺を選択したりというクセの強さも、個人のセンスによるものと理解してよいのかもしれません。

しかし、明治20年代は各地の鉄道が建設が始まりつつあった時代、これらの道標が立って十数年後には津山にも鉄道が開通し、道標など目にも止まらない速さの交通機関の時代が到来します。また、電気も徐々に普及して灯りとしての油の需要も下がっていき、城戸口の商売も曲がり角に差し掛かったことでしょう。城戸口重吉の羽振りの良さを感じさせる道標ではありますが、本人の「さきの世まではわからざりけり」という言葉通りに時代も変化していくことになりました。

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