倉吉市の大山道(川床道)

大山の東、川床に集まる大山道は川床道と呼ばれます。主なルートとして日本海岸の赤碕および倉吉市の関金からのルートがありました。令和5年(2023)10月現在、唯一「だいせんみちを歩こう」に掲載できていないルートですが、倉吉市関金エリアに限ってはそのほとんどを数年前に歩いているため、その部分の主な見どころを先行して簡単にご紹介します。

東の大山鳥居

大山には東西南北に大山遙拝の鳥居があったと言われています。真庭市蒜山西茅部の鳥居乢にある鳥居は一度倒れたものが立て直されて健在ですが、その他は現地に現存していません。しかし、倉吉市関金町大鳥居の鳥居については、場所を変えて鳥取県立農業大学校の500mほど西に新たに建てられています。写真では少しわかりにくいですが、もちろん鳥居の向こうに大山が見えます。大山道と備中往来の分岐点にあったという道標もこの場所に移設されて保存されています。

大山鳥居
鳥居の向こうに大山
道標
道標も移設されて保存されている

大山池

また、東の大山鳥居の側には天神野円筒分水工があります。これは昭和43年(1968)に建設され、天神野と呼ばれるこの近辺の地域の農地に公平に狼谷池の水を分けるための施設です。

天神野円筒分水工
天神野円筒分水工

狼谷池とは、この場所から2.5kmほど西にある池で、大山池と通称されています。堤防から大山が美しく見え、水面に「逆さ大山」が見事に映ることもあります。現在はキャンプ場として人気を集めています。

大山池
大山池

大山道の道筋からは外れていますが、大山道が牛馬の道として現役だった時代にはなかったこれらの施設により、天神野の開発は飛躍的に進み、水田や梨園が大山を背景として伸びやかに続く風景が生まれ、歩くにも気持ちの良い道となっています。

旧国鉄倉吉線廃線跡

東大山鳥居や大山池はかつての大山道の道筋より北にあり、大山池から南下して大山道に戻ったあたりは大山道と旧国鉄倉吉線の廃線跡がほぼ並行しています。この付近では廃線から40年近くが経過した現在もレールが残されており、特に旧泰久寺駅の少し西は竹林の中を通りますが、レールの間から竹が生えている様子も珍しく、「日本一美しい廃線」とも評されています。また、旧倉吉線は終点であった山守から南勝線として蒜山や湯原を経て姫新線の中国勝山駅まで延伸される計画もありました。

大きな木も育ってきている
大きな木も育ってきている
レールの間から竹
レール間から生えている竹

里見氏終焉の地

旧関金町における大山道の道筋は大鳥居地区からほぼ真西に続きますが、旧泰久寺駅から西へしばらく進むと歩ける道がなくなってきます。そこで今度は南の小鴨川沿いに出ていくと、堀地区に里見忠義主従の廟があります。

この里見忠義とは房総半島の戦国大名であり、「南総里見八犬伝」でも知られる里見氏の最後の当主です。歴史の詳細は他のサイト等をご覧いただけばわかりますが、安房館山藩主であった里見忠義は倉吉3万石に減封となります。しかし、実質は取りつぶし同然の扱いであり、倉吉ではわずかな領地が与えられたのみで、それさえも取り上げられた末、忠義はこの関金町堀の地で29歳の若さで亡くなり、里見家嫡流は断絶します。殉死した家臣も含め、小さな社に祀られており、その怨霊がとどまっていると言われるシイの古木もあります。

里見忠義主従の廟
里見忠義主従の廟

明高を経て地蔵峠へ

堀地区から次の明高地区にかけては一気に標高を上げます。集落に入ったところ、明高東口バス停の北には古道の跡がわずかに残されており、そこには『右 大山』と刻まれた土着地蔵があります。明高地区は大山山麓らしい高原の風景となっており、特に集落を過ぎてからほぼ一直線に続く県道45号沿いの景色は圧巻です。

土着地蔵
忘れ去られたような大山道に残る土着地蔵

高原状の平地が尽きると地蔵峠への峠道にかかり、県道もカーブを繰り返すようになります。その途中で県道45号と県道44号の交差点があり、そこからは中国自然歩道に入って倉吉市と琴浦町の境となる地蔵峠に至ります。ここには道標と地蔵と石灯籠があり、大山道の峠らしい雰囲気です。ここから大山までの大山道は中国自然歩道とほぼ同じなのですが、地理院地図でも点線で描かれている地蔵峠から琴浦町方面への道は、残念ながら草木が伸びて通り抜け困難な状態となっています。

地蔵峠の道標
地蔵峠の道標
地蔵峠の峠地蔵
その名の通り立派な地蔵が峠道を見守る

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