二部宮の鼻の道標

旧街道に残る道標の中には個人が自らの商売の手段として設置したものもあり、これまでも津山で油屋を営んでいた城戸口重吉という人物が明治中期に建立した西寺町の道標兼田橋西詰の道標をご紹介しましたが、それよりも古い時代に大坂の近江屋市次郎という商人が設置した道標が伯耆町にあります。

交通拠点だった二部

二部宿は出雲街道の宿場の中で唯一国道から離れた場所に立地していますが、二部交差点で根雨と法勝寺を結ぶ県道35号、溝口と黒坂を結ぶ県道46号が交差しており、道標は二部交差点より少し南東の旧道に立っています。なお、二部宿の南の出入口になる場所にあるため、「二部の道標」として知られますが、厳密には所在地は畑池地区となります。

(北面)

「右 びんご」

「左 大坂 道」

(東面)

「右 米子」

「左 黒坂」

嘉永2年(1849)

二部宮の鼻の道標
二部宮の鼻の道標

道標としての内容は正統派で、四方にある程度知られた地名が案内されていることから、昔から出雲街道以外の道にもある程度の往来があったものと推測されます。地形的に見ても、二部はたたら製鉄が盛んだった周囲の山々からの谷筋が集まる要の位置にあるため、経済的にかなり繁栄しており、明治時代には日野郡の郡役所も置かれ、名実ともに日野郡の中心地でした。

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二部に広告を出した大坂商人

そんな二部に目を付けたのが近江屋市次郎という大坂の商人で、この道標は「施主 大坂道とんぼり 近江屋市次郎 日本ばし南づめ」という文字が刻まれているのが大きな特徴です。

施主は大坂の近江屋市次郎
施主は大坂の近江屋市次郎

市次郎は商魂たくましく、自らの経営する近江屋の旅館に客を呼び込むべく、このように交通の要衝に宣伝のための道標を立て、また、「参宮記」というお伊勢参りの旅行案内を作成し、道中の宿の案内もしたそうです。

市次郎が経営する近江屋は当時の大坂でもかなり繁盛していた旅館だったそうですが、ネットはおろか高速交通機関もない時代にこのような遠隔地で宣伝を行っていたことが商売繁盛の秘訣だったと言えるでしょう。また、施主こそ近江屋市次郎ですが、世話人として地元の人々の名前も刻まれており、遠く二部での道標建設を可能にする人脈もあったことも読み取れます。現在の情報社会に比べれば、質量とも圧倒的に情報が足りない状態で旅をした当時の人々も、近江屋市次郎によって提供された情報により、旅の安心感を得られていたことでしょう。

このように、宿泊業だけでなく旅行業も営み、広い範囲で宣伝・広告も行った近江屋市次郎は、現在の情報社会、現在の営利企業にもそのまま通じるような発想の持ち主だったと言えます。そんな江戸時代の大坂商人の発想が明確に残されているのがこの道標の歴史的な価値と言えます。

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