【後醍醐天皇伝説の地】作楽神社
出雲街道の沿線で語られる後醍醐天皇の隠岐遷幸にまつわる伝説の中でも、最も有名と言える場所が美作国の中央部に位置し、中世の美作国の中心地だった作楽神社です。
美作国の守護所だった院庄館跡
中国自動車道の院庄インター近くにある作楽神社は、守護の制度が創設された鎌倉時代には守護所が置かれ、美作国の統治の中心地でした。また、院庄という地名は後鳥羽上皇の荘園があったことによるものだと伝えられています。現在でも作楽神社の境内は堀に囲まれ、当時の様子が想像できます。
位置的に考えても美作国のほぼ中央に位置し、現在の道路網でも倉吉方面の国道179号と米子方面の国道181号の分岐点である交通の要地であり、出雲街道が山陽道から分岐して山陰道に至るまでのほぼ中間点となっています。後醍醐天皇は元弘2年(1332)の3月17日から3月21日までここに滞在されたとされていますが、遷幸の途中で一時的に滞在されたとしても納得できそうな場所です。
十字の詩の伝説
『太平記』には杉坂峠で後醍醐天皇を奪還しようとして失敗した児島高徳がこの地まで天皇を追い、その宿所の庭に忍び込んで桜の木に『天莫空句践 時非無范蠡』(天句践を空しうすること莫かれ 時に范蠡無きにしも非ず)の十字の詩を残したという逸話があります。この詩は「臥薪嘗胆」の故事成語でも知られる中国の春秋時代の呉越の争いにちなんだもので、呉の国との戦に敗れた越の国王である句践を後醍醐天皇に、その句践を支えた忠臣の范蠡を自らに重ね、天皇を励まそうとしたものです。この話は『児島高徳』という歌になり、戦前には文部省唱歌として音楽の教科書に掲載されて全国の小学校6年生が歌うこととなりました。
聖地から伝説を語る場所へ
院庄館跡は明治2年(1869)に後醍醐天皇と児島高徳を祀る作楽神社となり、以降、皇国史観の高まりとともに、境内には聖地として次々に記念碑等が立てられました。終戦後には主たる歴史観も変わり、児島高徳の名前も徐々にマイナーになっていきますが、『児島高徳』を歌って育った人々が抱く誇りは変わらず、境内には新しい記念碑等も建立されています。
それらの紹介は割愛させていただきますが、後醍醐天皇にまつわる地元の伝説を誇る人々の思いがよく感じられる場所です。出雲街道の沿線で様々な後醍醐天皇伝説が語られた時代に生まれた人々が亡くなられていくこの時代、戦前の歴史観やそれに基づく伝説を語り継ぐ場所として、これからも美作国の一つのシンボルであり続ける場所だと言えます。