【後醍醐天皇伝説】杉坂峠

出雲街道の沿線において多く語られている後醍醐天皇の隠岐遷幸にまつわる伝説の中でも、代表的な場所の一つが播磨と美作の国境の杉坂峠です。

中世の出雲街道

播磨と美作の国境の出雲街道は、現在の国道179号と姫新線のルートに近い万能峠(萬ノ乢)越え、現在の県道365号と中国自動車道のルートに近い杉坂峠越えが主な道筋です。後醍醐天皇の時代は杉坂峠が主に利用されてきた道で、国境の要衝として、杉坂峠には佐用郡内で唯一の関所も設けられていました。国境の史跡だけに兵庫県側と岡山県側の両方に入口があり、両方が設置した案内板があります。

佐用町設置の案内板
佐用町設置の案内板
岡山県設置の案内板
岡山県設置の案内板

『太平記』にも登場する児島高徳の伝説

杉坂峠は地元で語られてきた後醍醐天皇の伝説があるだけの場所ではなく、あの『太平記』にも明確にその地名が記されています。

佐用町側にはその記述の案内板が設置されており、後醍醐天皇の奪還を企てた児島高徳の話が登場します。要約すると、児島高徳は天皇一行が山陽道を通られると予測して播磨と備前の国境の船坂峠で待ち構えていたものの、実際は出雲街道で美作方面へ向かわれており、それを知って急ぎ杉坂峠に駆け付けたが間に合わなかったという話です。その後、児島高徳は院庄(現在の作楽神社)で十字の詩を残して後醍醐天皇を励まし、忠臣として名を高めました。

余談となりますが、その後の足利尊氏と直義・直冬との争いにおいても『太平記』に杉坂の名が登場し、当時の杉坂峠が要地であったことを窺わせます。地元の伝承では、付近に山城も築かれていたとも言われています。

太平記の案内板
太平記の案内板

杉坂史跡としての整備

『太平記』にも記述のある杉坂峠は先にも述べたように出雲街道沿線の中でも代表的な後醍醐天皇伝説地の一つですが、明治末に南北朝時代は南朝を正統とするという決定がなされ、続いて皇国史観による南朝方の人物の英雄化が進んだことにより、杉坂峠を史跡として整備する機運が高まりました。

立派な石碑が立つ
立派な石碑が立つ

その史跡整備は、小谷善守氏の『作州のみち 1.峠・木地師の道』によると、理髪店での地元の人同士の会話から始まったそうですが、その話はたちまち大きくなり、平沼騏一郎、宇垣一成、犬養毅といった岡山県出身の当時の大物政治家達も巻き込んで、昭和2年(1927)に大きな碑が建設されることになりました。

戦前の大物政治家の名前も見える
戦前の大物政治家の名前も見える

現在も「杉坂聖蹟」という表記が見られます。苔むした山道の石垣も近代の技術で美しく積まれており、紀元二千六百年(1940)には記念植樹がされているなど、昭和戦前には聖地として整備が進められました。

佐用郡八景の一番にも指定された
佐用郡八景の一番にも指定された
紀元2600年記念植林
紀元2600年記念植林

現在も利用される杉坂峠

このように戦前には英雄の史跡としてブームを起こした杉坂史跡も、現在はすっかり静かになっていますが、地元で清掃活動が続けられており、今も大切に守られています。

現在は県道365号も改良されて杉坂峠の少し南を通っていた当時の道そのものは失われていますが、この県道は概ね中世の出雲街道のルートを引き継いでおり、佐用から江見までの距離が万能峠ルートより3km以上近いこともあって、脇道として利用されていた江戸時代と同様に、現在も県境のサブルートとして利用されています。

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