【後醍醐天皇伝説】大宮神社と大御幸桜

出雲街道の沿線には後醍醐天皇の隠岐遷幸にまつわる伝説が多く語られています。以前、郷土の本として『後醍醐天皇の道』をご紹介し、この本では山陰を中心に102カ所の場所が紹介されていることを書きました。しかしながら、この本では津山市院庄より東の場所は掲載されていないので、実際の数はもっともっと多くなります。また、松江藩などの参勤交代の道となっていた江戸時代の出雲街道から大きく外れた場所でも後醍醐天皇の伝説は語られています。

南寄りの道

江戸時代の出雲街道は萬ノ乢を越えて播磨から美作に入り、美作国東部では土居~江見~楢原~勝間田~河辺~津山というルートです。しかし、後醍醐天皇にまつわる伝説はそれより南でむしろ多く語られています。そのルートは美作市のの途中から南下し、湯郷温泉あたりから美咲町柵原エリアに入って西進、津山市でも城下町エリアは通らず種地区あたりを通るというものです。

津山市内の南の道
津山市の南の道筋を紹介する案内板

大宮神社の大御幸桜と駐輦碑

そのような南寄りの出雲街道で重要な経由地となるのが美咲町の柵原エリアで、そのほぼ中央に位置する百々(どうどう)地区に柵原エリアを代表する後醍醐天皇伝説の地である大宮神社があります。

大宮神社の案内板
「後醍醐天皇ゆかり」と看板にも明記

その境内にあるのが大御幸桜と駐輦碑です。元弘2年(1332)3月16日に後醍醐天皇はこの地を通過され、ここの桜の美しさを称賛され、それ以来「大御幸桜」と呼ばれるようになったというものです。桜自体は安政4年(1857)に暴風により枯死してしまいましたが、その幹の一部が現在も大切に保存されています。

大御幸桜
大御幸桜

大御幸桜の脇には立派な駐輦碑も立っています。こちらは明治39年(1906)に立てられたもので、3月7日に京都を出て、3月15日に円応寺(佐用町)、3月16日に杉坂峠と進んでこられたことなどが語られています。後醍醐天皇の隠岐遷幸については細かな道筋や伝承の真偽は不明としか言いようがないのですが、3月に美作国を通過されたことは間違いなく、この他にも真庭市の醍醐桜や四季桜など、桜にまつわる伝説があります。

駐輦碑
駐輦碑

周辺の歴史

美咲町百々地区は昭和の合併前に存在した北和気村の中心地区でもありました。大宮神社だけでなく、周辺には華蔵寺や観音寺などの寺社があり、また、旧北和気小学校の跡は北和気郷土資料館もあります。甲和気川と乙和気川が落ち合う地形的条件から、昔も今もローカルな道が集まってくる場所であり、大宮神社のすぐ北には西大寺元標十四里の里程標があり、北に600mほどのところや東隣の行信地区の集落入口には道標も残されています。近世以降の出雲街道よりかなり南寄りに思える場所ですが、杉坂峠から院庄までの間でここを経由したとしてもそれほど遠回りではなく、後醍醐天皇がここを通られたとしても不思議ではないと言える場所です。

西大寺元標十四里里程標
西大寺元標の里程標もある

[公共交通でのアクセス]

柵原星のふる里バス「大宮前」下車すぐ

【後醍醐天皇伝説】大宮神社と大御幸桜” に対して5件のコメントがあります。

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