【後醍醐天皇伝説】円応寺の駐輦碑

後醍醐天皇の隠岐遷幸にまつわる伝説は岡山県北部や山陰に限られたものではなく、もちろん兵庫県にも存在します。先にご紹介した岡山県美咲町の大宮神社にある駐輦碑に記されていた佐用町円応寺地区にも後醍醐天皇の駐輦碑があります。

3月15日に宿泊された地

円応寺地区は佐用の小盆地の東端、中国自動車道佐用インターの南に位置し、その集落の中心近くにこの駐輦碑はあります。折れてしまっているため、元々置かれていたと思われる台座の脇に置かれていますが、かなり立派な石碑であったことはわかります。

駐輦碑
折れてしまっている碑

以前にご紹介した大宮神社と同じような石碑もあり、元弘2年(1332)3月15日にここに泊まったと記述されています。この内容は大宮神社のものと一致しており、また、佐用から2日後の3月17日に到着されたという院庄までの距離はルートにもよりますが50km弱と、推定とは言え不自然なことはなく、地域で語られてきた話も決して噓の伝承ではないと感じさせてくれます。

歴史を記した碑
歴史を記した碑もある

ところで、この場所には立派なイチョウの木もあります。佐用と言えば市街の大イチョウが知られていますが、季節にはここにもあわせて訪れたいものです。

周辺の名所

同じ円応寺地区内、100mほど南には佐用範家の墓と伝えられる宝篋印塔があります。この佐用高家は鎌倉幕府打倒に大きな役割を果たした赤松氏の一族で、「太平記」では元弘3年(1333)の京都の久我畷の戦いで鎌倉方の大将であった名越高家を打ち取ったとされている人物です。

佐用範家の墓とされる宝篋印塔
佐用範家の墓とされる宝篋印塔

円応寺地区から佐用川を渡って右岸に移ったところにあるのは佐用都比賣神社(さよつひめじんじゃ)です。ここは「播磨国風土記」にも記された神々の伝説に基づく古代からの神社です。近世以降の宿場や姫新線の佐用駅が佐用川の左岸に置かれたことから現在の佐用の市街は南の方に移っていますが、中世までの佐用の中心がこの付近であったと想像させます。

佐用都比賣神社
佐用都比賣神社

[公共交通でのアクセス]

中国ハイウェイバス「佐用インター」下車 約1km

姫新線・智頭線「佐用駅」下車 約2.2km

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