西茅部の地蔵道標
真庭市蒜山上徳山地区の延助集落は大山道の宿場として繁栄してきた集落で、「延助の道標」として集落の東西にある道標をご紹介しましたが、集落の周辺にはまだ他にも道標があり、鳥取県境を目前とした延助の宿場を前に、岡山県内各地からの大山道が集まってきたことを感じさせます。
新庄への分かれ道
延助の東の道標がある交差点から南東へ進み、旭川を渡って坂道にかかると200mほどのところに道標があります。蒜山高原の平野部より少し高い位置にあり、蒜山三座の眺めの良い場所にある道標です。
「右ハ 大山道」
「左ハ 新庄道」
天明6年(1786)
米子自動車道の蒜山インターのすぐ側にあって道路も改修されており、向きがずれているので、少し移設されていることがわかりますが、ここが大山道の道筋から野土呂峠を越えて新庄方面に向かう県道58号につながる道が分岐する交差点であることに変わりはありません。
西暦1800年前後に多数設置された大山道の道標
ところで、地蔵が彫られたこの道標は同じ蒜山の大山道にある鳩ヶ原の地蔵道標とよく似ています。鳩ヶ原のものはこの道標の2年後、天明8年(1788)のもので、施主こそ違えども、同じメーカーに同じようなものを発注したと推測できます。
さすがに形まで似ている道標はこの2つだけですが、延助周辺で大山を指し示す道標では延助集落の西の道標が天保3年(1832)、鳩ヶ原に上る途中の赤坂の道標は文政12年(1829)のものです。また、鳥取県の大山に近い場所においても、岡山県方面への横手道の分岐を示す道標である桝水分かれの道標が天明8年(1788)、小柳分かれの道標が享和3年(1803)のもので、西暦1800年前後の約50年間に集中しています。この時期が牛馬を連れて大山道を歩く人々が増え、大山道の整備が進んだ時期だと言えるでしょう。