藤森の道標地蔵

岡山県真庭市の湯原エリアでは現在の米子自動車道と同じように大山道が南東から北西へ横断していました。湯原エリアの北西部で拠点的な場所だったのが藤森で、道標地蔵が残されています。

大山道らしい地蔵

藤森の集落を北に出たところで、県道322号から鳥居乢を経て蒜山方面に向かう大山道が分岐し、その交差点に道標地蔵が立っています。県道322号はまもなく土伏トンネルを抜けて、その先を直進すれば中福田へ、右折すれば蒜山エリアの中央部に設けられた蒜山振興局付近に至り、それぞれ国道482号につながります。

「右ハ くら吉道」

「左ハ 新庄道」

文化10年(1832)

藤森の道標地蔵
藤森の道標地蔵

大山周辺は「地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市」として日本遺産となっているだけあって、横手道・尾高道・坊領道における多数の一丁地蔵や米子市街における加茂川沿いの地蔵が地蔵信仰を物語っていますが、岡山県においても真庭市の鳩ヶ原の地蔵道標や西茅部の地蔵道標、この藤森の道標地蔵が見られ、遠く離れた吉備中央町でも道標地蔵が多く見られます。

Googleマップで見る

交通拠点だった藤森

藤森は現在では山間の一集落という雰囲気ですが、江戸時代中期の美作国の絵図では藤森を真庭市北部で唯一「町」と表記したものがあるそうです。実際に大山道の宿場町としての機能も有していたようで、現在でも集落南側の十字路を中心に家屋が並んでいて、ごく小規模ながら「街」の形になっていることがその名残となっています。

その繁栄の理由は南からの大山道だけでなく現在は湯原ダムに沈んだ東からの大山道もあったこと、藤森から西の山々ではたたら製鉄が盛んであったことが挙げられ、江戸時代には藤森の十字路は東西南北とも重要な道路だったと言えます。現在では牛馬の道としての大山道、周辺の山々の製鉄がともに役割を終え、東への道も湯原ダムに沈んで黒杭地区まで行くだけとなった結果、寂しい雰囲気となっていますが、この道標地蔵を含めた多くの石仏、戦国時代の飯山城跡、建部神社などがその拠点性を感じさせます。

藤森の家並み
藤森の家並み

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

道標

前の記事

西茅部の地蔵道標