天保国絵図で辿る出雲街道の村と一里塚 -3.美作国西部-

「天保国絵図」は天保6年(1835)に江戸幕府によって作成が命じられ、天保9年(1838)に完成した地図で、現在、国立公文書館デジタルアーカイブで閲覧することができ、江戸時代後期の全国の様子を知るのに非常に有用な絵図です。この「天保国絵図」を使って、そこに描かれた出雲街道の村と一里塚を辿ってみましょう。前回の美作国東部(美作市・勝央町・津山市)に続いて、今回は美作国西部(真庭市・新庄村)です。

出雲街道が通る村

現在の真庭市東部にあたる大庭郡に入ると、まずは上河内村を通り、美作国の天保国絵図の出雲街道沿いではこれまで描かれてなかった山々を抜け、三崎河原村(字の読み方が違っているかもしれません)の北を通って大庭村に入ります。目木川を渡って中嶋村の横を通ると久世村(久世宿)です。

大庭の集落
大庭の集落

現在の真庭市西部にあたる真嶋郡に入ると、最初の村は勝山城下の高田村(勝山宿)です。旭川を渡って本郷村の南を通って神代村の東に出ると、出雲街道は新庄川に沿って屈曲を繰り返すようになり、村の間の距離も長くなって山間部に入っていることがよくわかります。ここから先、国境の四十曲峠までの間で絵図に描かれている村は田口村美甘村(美甘宿)と新庄村(新庄宿)のみで、他の集落は村として扱われていません。

神代の集落
神代の集落
田口村と美甘村の間の旧街道
田口村と美甘村の間の旧街道

余談ながら、新庄村は明治時代に市町村制が施行されてから一度も合併をしていない村ですが、天保国絵図でも現在の新庄村域において新庄村以外の村は記されておらず、新庄村という村の範囲は江戸時代から現在に至るまで全く変わっていないことがわかります。

江戸時代の村の範囲が今も変わらない新庄村
江戸時代の村の範囲が今も変わらない新庄村

出雲街道の一里塚の場所

美作国東部で一里塚が描かれている場所は、目木村の東(目木川対岸)久世村の東勝山城下(高田村の東)神代村の東田口村の北美甘村の西新庄村の南東嵐ヶ乢・四十曲峠の東の8カ所です。

目木村の東 高清水付近に一里塚があった
目木村の東 高清水付近に一里塚があった

美作国の出雲街道一里塚については、美作地域歴史研究連絡協議会が平成29年(2017)に「美作の道標と出雲往来一里塚」という本を出しており、様々な資料と現地での聞き取りをもとにした内容は近年の研究成果と言えるものなので、私が制作した「出雲街道を歩こう」のマップおよび当ブログで美作市勝央町・津山市東部津山市西部真庭市東部真庭市西部・新庄村の5回に分けてご紹介した内容もそれに基づいています。

天保国絵図と当サイト・当ブログでこれまで取り上げてきた内容は数としては一致していますが、久世付近の一里塚が天保国絵図では久世宿の東、当ブログでご紹介したのは久世宿の西となっており、明らかに違っています。また、勝山宿付近の一里塚についても、高田神社前のものか旭川沿いの道のものかの区別がつきません。

久世宿の西の供養塔付近に一里塚があったと伝わるが天保国絵図では東
久世宿の西の供養塔付近に一里塚があったと伝わるが天保国絵図では東

また、神代村から国境までの一里塚も記載されている村が少ないこともあって位置の特定が難しいです。勝山から美甘・新庄方面の一里塚の相互間は6km程度の距離があるところもあり、険しい地形の中を行く山間の道だけに、一里塚の設置も大まかにならざるをえなかったのかもしれません。

新庄方面の一里塚は数が少なかった
新庄方面の一里塚は数が少なかった

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