天保国絵図で辿る出雲街道の村と一里塚 -2.美作国東部-
「天保国絵図」は天保6年(1835)に江戸幕府によって作成が命じられ、天保9年(1838)に完成した地図で、現在、国立公文書館デジタルアーカイブで閲覧することができ、江戸時代後期の全国の様子を知るのに非常に有用な絵図です。この「天保国絵図」を使って、そこに描かれた出雲街道の村と一里塚を辿ってみましょう。前回の播磨国に続いて、今回は美作国東部(美作市・勝央町・津山市)です。
出雲街道が通る村
萬ノ乢を越えて美作国に入ると、現在の美作市にあたる英田郡の土居村(土居宿)です。ここから山家川を渡って竹田村と上福原村の横を通って江見川(吉野川)を渡ります。江見については当時から街が形成されていたはずですが、天保国絵図には記載されていません。川北村の北を通り、峠村と間の宿があった楢原上村を経て梶並川を渡ります。梶並川の西は勝南郡で、北山村、下香山村、上相村の横を通ると現在の勝央町域に入ります。

勝央町では後醍醐天皇の姿見橋の伝説もある勝間田池が描かれており、出雲街道はその南側を通って岡村の南を通過して勝間田村(勝間田宿)に至ります。勝間田村の西で滝川を渡って黒坂村を通り、現在の津山市に入ります。

津山市に入るとまず池ケ原村の北、次いで福力村の南を通り、広戸川を渡って新田村の南西を通過、河辺村を経て加茂川を渡ります。加茂川の西は東南條郡で、川崎村の北、林田村を通って宮川を渡り、津山城下に到着します。

津山城下町の西で藺田川を渡り、そこから西北條郡の小田中村の南を通って紫竹川を渡り、西西條郡の二ノ宮村の南を通って院庄村に入ります。院庄村の西で津山川(吉井川)を渡ると久米北條郡に入り、久米川と何度も絡みながら宮尾村、領家村、中北下村の南を通過し、坪井村(坪井宿)に至ります。ここから先、断続して小規模な集落がありますが、天保村絵図には独立した村として記載されている村はなく、大庭郡(現在の真庭市)に入っていきます。

出雲街道の一里塚の場所
美作国東部で一里塚が描かれている場所は、土居村の西、上福原村と江見川(吉野川)の間、楢原上村の東、上相村の南、黒坂村の東、広戸川の北西、林田村東の因幡道分岐点、二ノ宮村と院庄村の間の伯耆道分岐点、領家村の東、坪井村の東、大庭郡との境の東の11カ所です。

美作国の出雲街道一里塚については、美作地域歴史研究連絡協議会が平成29年(2017)に「美作の道標と出雲往来一里塚」という本を出しており、様々な資料と現地での聞き取りをもとにした内容は近年の研究成果と言えるものなので、私が制作した「出雲街道を歩こう」のマップおよび当ブログで美作市、勝央町・津山市東部、津山市西部、真庭市東部、真庭市西部・新庄村の5回に分けてご紹介した内容もそれに基づいています。
天保国絵図とは数はもちろん、位置についてもほぼ一致していますが、微妙な違いいとして、天保国絵図では楢原の一里塚が村の東に描かれていること、領家村の東の一里塚が久米川の北岸に描かれていることがあります。前者については村の中にある一里塚をどこに描くかという表現上の問題で、後者については暴れ川だったとされる久米川の流路が現在とは異なっていた、と個人的には推測していますが、これらについては異説が考えられるところかもしれません。



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